アパートメント紀行(17)
バルセロナ #1
マドリードのアトーチャ駅からバルセロナのサンツ駅まで、新幹線で三時間弱。車窓に広大なひまわり畑が見えるんじゃないかと期待していたけれど、残念ながらぐっすりと眠り込んでしまっていたので、それが見えていたのかどうかはわからない。
快適な車内は静かで、車内アナウンスもほとんどなかったので、サンツ駅が終点でなかったら、きっと寝過ごしていたに違いない。
バルセロナは、マドリードより涼しかった。海風の匂いがする。駅から乗ったタクシーの運転手さんは女性で、すごくわかりやすい英語を話し、私がホテルの名前を告げると、あら、いいところを選んだわね、どこへ行くにも歩いて行けるし、それに素敵なカテドラルの前にあるのよ、という。運転もうまく、すいすいと十分ほどでホテルに到着する。
ホテルの前で、重い荷物をタクシーのトランクから降ろそうとしていると、ベルボーイが慌ててやって来て、マダム、私がやりますから、といってくれて嬉しかった。
列車の旅では、重い荷物をゴロゴロ押してホームを歩いたり、段差のある車内に運び込んだりと、飛行機とは違って自分で荷物を運ばなければならなかったので、ベルボーイの存在は有り難かった。
若いベルボーイはにこにこと笑いながら、クラシックなホテルのロビーへと私をエスコートしてくれる。私がチェックインする様子を、ずっとにこにこと見守っていて、旧式のエレベーターのボタンを押しながら、私が鍵をもらってエレベーターの前に来るのを待っている。
そして、チェックインを終えた私に、待ち切れないという様子で話しかけてきた。
あのう、日本人ですか? 私のパスポートを遠目に見ながら確認していたのだろうか、はい、日本人ですと私が答えると、ワオ、僕は日本語を勉強しているんです、もしよかったら、日本語で話してもらってもいいですか? と英語でいう。
いいですよ、と私が日本語でいうと、ありがとうございます、と嬉しそうに日本語でいった。
ものすごく動きがゆっくりなエレベーターの中で、学校で勉強しているの? と聞くと、いいえ、テレビです、という。テレビ? と聞き返すと、はい、アニメを見ています、という。アニメ? とまた聞き返すと、はい、クレヨンしんちゃん、という。え? クレヨンしんちゃん? とまた聞き返してしまう。
旧式のエレベーターが、まるで三十階まで昇るかのような時間をかけて三階まで昇り、ガタンと止まり、重厚な扉がゆったりと恭しく開く。クレヨンしんちゃんを見て日本語を勉強しているという彼が、私の荷物を持って廊下の奥へと進んで行き、ここです、と日本語でいう。扉を開けて中へ入ると、薄いベージュとやわらかなピンクで上品に設えられた部屋にはうっすらと陽が差し込んでいて、とても優雅な部屋なのがわかった。
わあ、素敵なお部屋ねえというと、この部屋はカテドラルが見えない方の部屋ですけど、その代り静かです、と彼は英語でいう。日本語タイムは終わったのだろうか。
私の重いトランクを、どこに置きますか? と聞いてくれて、じゃあ、そこに、と、二十センチくらい段のある棚の上を指差すと、軽々と持ち上げて横にして置いてくれた。それから、と彼はまた日本語で話し始め、もちろん本でも勉強しています、といった。
バスルームへ案内してくれたり、テレビのつけ方や古い窓の開け方なんかを教えてくれた彼が、もしよろしければ、僕に、いつも、日本語を話してください、という。私は、わかりました、日本語で話します、と答える。
嬉しそうに部屋を出て行く彼に慌ててチップを渡し、どうもありがとうと日本語でいうと、あ、えっと、何日、滞在しますか? と彼が聞く。ワンウィーク、あ、一週間、というと、彼はにっこり笑い、よろしくお願いします、僕の名前はミゲルです、という。こちらこそよろしくお願いしますといいながら、私は自分の日本語がおかしくないかと気になってくる。
時刻は午後二時。静かなホテルの部屋で荷解きをした後、街を散策しに出かける。ホテルの前の広場は、大聖堂の広場でもあった。このカテドラルを中心とした旧市街は、ゴシック地区であるとガイドブックに書いてある。
迷路のように小さな路地があちこちに伸びていて、歴史ある建物に囲まれた石畳の道を歩くと、中世へとタイムトリップして来たような気分になる。
しかし、街を歩く人々はとてもおしゃれで現代的で、ゴシック建築を見上げないで歩いていると、次から次に楽しげでポップなお店が見えてきて、地元の若者向けなのか観光客向けなのかわからないけれど、この辺りの迷路のような通りは、歩いているだけで気分が高揚する一大商店街だった。
それぞれの店舗は小さいけれど、小さい店舗の連なりは大きい。売っている服や靴やバッグの値段も安く、電化製品も豊富で、甘い香りのお菓子屋や香水店も立ち並び、お財布の紐を固く閉じていなければと思うほど魅力的なストリートが続いている。
すっかり道に迷ったかなあと思った時、急に視界が開け、車で渋滞している大通りに出た。二車線ずつある車道より、真ん中にある遊歩道の方がはるかに広い並木道。これがバルセロナのメインストリート、ランブラス通りだろう。この道を下って行くと地中海に出るはずだ。
スペインの詩人ロルカが、スペインで一番終わってほしくない道だといったというランブラス通りの名は、アラビア語の水路という言葉に由来するスペイン語らしい。水路とはいってもうつくしい水の流れではなく、人口が増大した十八世紀、都市の排水が海へと流れ込む排水路となっていたらしい。スペイン内戦時には、人民軍とフランコ軍の境界線となっていたという。
そんな通りが、今や、カフェやレストラン、大劇場やギャラリー、市場や花屋や土産物屋などでひしめきあい、たくさんの人々で賑わう活気のある通りとなっている。大道芸人もたくさんいて、ずらりと立ち並ぶ彫像の隙間で、暑い中、白塗りや青塗りで生身の彫像になっている人たちもいる。
人々の流れに逆らわずに歩いていると、市場へと吸い込まれてゆく。そこはサン・ジョセップ市場、通称ボケリア市場。どんな絵具箱よりカラフルなお菓子が並び、真夏の果物が美味しそうにぶら下がっていたり、カットされて見事な彩りで並んでいたり、その横には見たこともないくらいの種類のスパイスが誇らしげに陣取り、ここでは生ハムもチーズも色見本帳のように並んでいる。
こんなカラフルな市場は見たことがない。その賑やかさに吞まれ、商売上手なおばさんにスイカのアイスキャンディを買わされて食べながら歩いていると、今度は陽気なおじさんにナッツを口に入れられる。しょうがないのでナッツとドライフルーツを買っていると、隣の鮮やかな赤や黄色や緑のゼリーも気になってくる。
子供の頃、お祭りの露店で、いつか大人になったら露店のものを全部買い占めてみたいと思っていたけれど、まさに大人になった今、それを実現しそうになっている。市場中の気になったものを全部買いそうな勢いだったけれど、馬鹿騒ぎしているアメリカ人の若いグループを見て我に返る。市場の出口の花屋のひまわりが、生き生きとした表情で私を見つめている。
市場を出て、海の方へ歩く。じりじりと照りつける太陽に、ただいま、といいたいほどの懐かしさを覚える。私は、地中海がとても好きだ。
地下鉄の駅を一つ分歩くと、海が見えてきた。海沿いの広場に建つ巨大なコロンブスの塔をぐるりと回り、少し勿体をつけながら地中海へ到着。大きく深呼吸をする。眼前に、濃紺の地中海。見上げると、真っ白い雲が浮かぶ高い青空。振り返ると、歩いてきたランブラス通りの並木がツヤツヤと緑色に光っていて、以前はお城だったけれど後に監獄となったという軍事博物館が重々しく建っている。
港には、観光船が数隻停まっていた。白い船体にブルーのラインが入った船はとても涼しげで、乗ってみたいと思った。チケット売り場まで行って、時刻表を確認し、明日の午後に乗ろうと決める。
さて、そろそろ約束の時間だ。友人の友人がバルセロナに留学中で、バルセロナに寄ったら是非訪ねてみてといわれていたので、一ヶ月ほど前に連絡を取り合い、今日の夕方、彼女のアルバイト先のお豆腐屋さんで待ち合わせをしているのだ。アルバイト先のお豆腐屋さんは、本格的な手作り豆腐のお店らしい。
ランブラス通りへ戻り、地下鉄の入り口から階段を下りる。事前に教えてもらっていた通り、改札口の手前にある自販機で回数券を買う。一週間の滞在だから、十回券にする。バスの回数券のように切符が十枚出てくるのかと思っていたら、カードが一枚出てきただけだった。スペイン語はさっぱりわからないけれど、描かれている絵で、このカードでバスにもトラムにも乗れることがわかった。
地下鉄三号線のリセウ駅から乗って四つ目のディアゴナル駅で降りる。地上へ上がり、四つ目の通りを左折すると、お豆腐屋さんが見えてくるはずだ。
初めて来た街なのに、なんの迷いもなくすたすた歩いて行けるのは、事前に調べていたからということもあるけれど、この街に住んでいる日本人の電話番号を知っているという安心感があるからかも知れない。
友人の友人の女性には初めて会うのだが、もうすでに何度もメールでやり取りしているので、初めて会うという感じはしなかった。
途中、日本のお茶を出しているらしいお洒落なカフェの前を通りかかる。立ち止まって店内を覗いてみると、京都の町家のような造りの長細い店内の奥に、畳の上がり框のようなものがあって、座布団が敷かれているのが見える。改めて来てみようと後ろ髪をひかれながらお豆腐屋さんへ向かう。
四つ目の通りを左に曲がって少し歩くと、「お弁当」と日本語で書かれた赤いのぼりが見えてきた。あれだろうか。あれなのだろう。お弁当も売っているんだと嬉しくなって早足になる。
想像していたより広い店内に入ると、いらっしゃいませーっと温かい声の日本語が聞こえる。声の主を見つけるより先に、日本の食材がずらりと並んでいる棚を見つける。醤油、麺つゆ、うどん、インスタントラーメン、グリコのお菓子エトセトラ。久しぶりに見る日本の食材に見惚れていると、背後から、懐かしいでしょう? と声を掛けられた。振り返ると、やさしく微笑んでいるエプロン姿の日本人女性が立っている。
こちらに住んでらっしゃるの? と聞かれ、あ、いえ、旅行中で、キコさんに会いに来たんですというと、ああ、聞いてるわ、ずっと旅している方よね、ちょっと待っててね、もうすぐ彼女上がりだから、という。
とても感じのいいこの人はオーナーなのだろうかと思っていると、私の心の疑問を読み取ったかのように、この店はね、夫と二年前に始めたのよ、と教えてくれる。
食材コーナーの反対にある棚に、懐かしい、そして馴染み深いお弁当の数々を見つける。うわあ、とんかつ弁当、からあげ弁当、コロッケ弁当、鮭弁当、豆腐ハンバーグ弁当! 私がいちいち読み上げるのを笑いながら見ていた奥さんが、ほら、こっちに納豆もあるわよ、という。納豆の隣には、うわあ、がんもどきもある!
奥の調理場で作っているというお豆腐は、日本のスーパーで売っているお豆腐より美味しいのよと奥さんが自慢する。日本の食材に囲まれていることで、すっかり舞い上がってしまった私は、初めてお会いした奥さんなのに、ばったり近所のスーパーで会った顔見知りと話すかのように無遠慮に喋り続けている。
ご主人がリタイアしてバルセロナへやって来て二年、最初はスペイン語なんて全然出来なかったという奥さんの苦労話を聞きながら、ああ、母国語っていいなあとしみじみ思う。
話が盛り上がっているところに、友人の友人、キコさんが仕事を終えてやって来て、きゃあ、やっと会えたあ、と対面を喜んでいると、どれくらいぶりなの? と奥さんが聞くので、いえ、初めて会うんです、というと驚かれた。
店内で盛り上がるのもなんだからと、また絶対に来ますとお豆腐屋さんの奥さんに別れを告げて、キコさんと店を出る。地下鉄に乗るのかと思いきや、全然歩けるよってキコさんが笑いながら坂道を下り出すので、慌ててついて行きながら、ああ、バルセロナも坂の街なんだなあと、己の膝の痛みで知る。
私の行きつけのお店でいい? と聞くので、もちろんと答え、お互いに早口で、共通の友人の話から簡単な自己紹介を経て、近況までを話す。私ってこんなに早口だったっけ? とびっくりするくらいに日本語が、この時を待ってましたとばかりに口から飛び出してくるので、そんな自分を客観的に眺めているのが面白かった。
キコさんの行きつけのカフェは、東京の青山や表参道にあるようなお洒落なカフェで、オーガニックな飲み物も豊富にあり、カフェの奥はちょっとしたギャラリースペースになっていて、美大を出ているというキコさんのイメージに合う店だった(勝手に思っているイメージだけれど)。
四十歳くらいのはずのキコさんは、私の目からはどう見ても二十代にしか見えず、それは彼女がとても小柄だからというのもあるのかも知れないけれど、随分年下のスペイン人のボーイフレンドがいるというのを聞いて、なるほどなあと納得した。
どう見ても二十代にしか見えないキコさんと、最先端のお洒落なカフェで、彼女の恋の話を聞いていると、自分も二十代の若い女であるかのような錯覚を起こす。四半世紀分くらいの自分の足跡が消え、これからなんでもやれるような気分になってくる。
それにしても、バルセロナに着いてからずっと日本語を話している。そのせいか、外国にいるという意識が薄く、このカフェを出て右に曲がると、見慣れた路地があって、その先に自分の家があるんじゃないかという思いが何度も湧き上がってくる。
心地良い音楽と、美味しいオーガニックなオレンジジュースと、通りから聞こえてくる微かな喧騒。可愛らしいキコさんの話を聞きながら、故郷に帰って来たような安堵感を覚え、心地良くて眠たくなってくる。
キコさんと二時間ほどお喋りをしてカフェを出ると、そこはやっぱりバルセロナで、私が帰るのは家ではなくてホテルなのだ。
地下鉄三つ分の距離も全然歩ける距離だよってキコさんがいうので、二人で坂道を下りてゆく。本当だ、バルセロナ大学を過ぎるとカタルーニャ広場で、もうランブラス通り。ホテルはすぐそこだ。
地下鉄に乗って帰るというキコさんと別れ、半日で覚えたゴシック地区の通りを迷わずカテドラルまで歩き、シックなホテルに帰る前に晩ごはんを食べようと、カテドラルの横にある感じのいいレストランのテラス席に座る。
英語のメニューから魚料理を適当に頼むと、タラのムニエルにレンズ豆のトマトソースがかかったうつくしい料理が出て来たので、急いで白ワインを頼む。ほかほかのパンも素晴らしく美味しくて、白ワインとともにお代りをする。
カテドラルの前の広場には、大道芸人を囲む輪が出来ている。大きな大聖堂に見守られているからか、一人でごはんを食べていてもちっとも寂しくなくて、それどころかなぜが喜びに溢れ、パン屑をこっそり落として鳩に分け与えたりしている。
バルセロナの街の、何がそんなに私を落ち着かせてくれるのかわからなかったけれど、漫画風にいうならば、私のハートにぴったりくる街、それが、バルセロナに着いた初日の感想だった。
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