山頂で見た忘れられない幸せな風景
私には、山頂で見た忘れられない風景がある。
思い出すと幸せな気持ちになるのだ。
場所は雌阿寒岳。
時は2020年、夏。
その日、私はソロ登山。
登山口付近の駐車場で準備をしていると、声をかけられた。
そこには80歳は過ぎているだろうお爺さんがいた。
登山口を探しているという。
お爺さんは、スラックスと古い運動靴を履いていた。
背中が少し曲がっていて、
小さな古いリュックを背負っていた。
私は、「登山口は、ここを真っ直ぐ50メートルくらい歩くと右手にあります。看板があるのですぐにわかりますよ。」と伝えた。
(背中が曲がっているけど、大丈夫かな。登山の恰好でもない。今日は暑い。心配だな。)
私はそんなことを思いながら、お爺さんより先に登山口を出発した。
その後、標準タイムとほぼ同じ2時間半で山頂に到着。
眼下に広がる絶景を目の前に、カップ麺とコーヒーを楽しんだ。
食事と休憩が済み、下山の準備をしていると、登山口を探していたお爺さんが小さな男の子と一緒に山頂に到着した。
小学低学年くらいのその子は、曾孫だろうか。
標準タイムより1時間遅れの到着。
長い登山道を2人でゆっくりと歩き、休みながら登ってきたのだろう。
山頂に到着した2人は顔を見合わせて喜んでいた。
そして、お爺さんと男の子は並んで土の上に座った。
お爺さんが古い小さなリュックから出したのは、手で握ったおにぎり2つ。
そして、昔のキャラクターの絵がついた、古い水筒。
古いアルミのお弁当箱。
お爺さんはその水筒から麦茶をコップに注ぎ、おにぎりと一緒に男の子に手渡した。
アルミのお弁当箱を開けると、卵焼きとウインナーが入っていた。
2人は手作りおにぎりや卵焼きを食べ、麦茶を飲みながら笑い合っている。
私は、この2人に登山の本質をみた気がした。
雑誌やネットを覗けば、最新の高価な登山道具に溢れている。
コンビニには、調理済みの食事が並んでいる。
これらは、お金さえ出せば簡単に手に入るのだ。
それらを買うことを悪いとは思わない。
でも、
高価な最新の登山道具がなくたって、
水筒やお弁当箱が古くたって、
同じ目的を持ち、喜びを共有できる大切な人と登る山は、楽しいのだ。
そこには、質素だけれど豊かで幸せな生き方があった。
暖かく優しい時間が流れていた。
手作りのおにぎりやおかずたちは、お婆さんが愛情込めて作ったのだろうか。
山頂で食べるとびきりのご馳走だったろう。
この出来事は、私の登山の概念を変えた。
そして、山頂で見た忘れられない幸せな風景として、今も瞼に残っている。
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