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主が共におられることを確信する
サタンの攻撃を受ける教会。
クリスチャンは日常的に攻撃を受けており、信仰が試されている。
ある人は教会から遠のいてしまう。
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
私達はともにつながっている必要がある。
バラバラにいるのではなく、ともに信仰を持つことによって、敵から守られる。
この世にいるものよりも、私達のうちにいるものが偉大であることを信じなければならない。
そして教会として共に立つ時、それはさらに大きな力となる。
繋がっていれば守られる。
神の敵は教会を分裂させて、分離しようとする。
私達が共に立つなら、暗闇の王国に対する強大な力となる。
この地上でサタンと悪霊に対抗できる力が神以外にあるだろうか。
なにもない。
教会に今いるということは、敵を阻止するという使命、宿命である。
私達はすべてのことで一致しよう、ということではない。
しかし、この教会は神の教会である、ということは一致ができる。
神が焦点を合わせるべき対象であるということ。
キリストの体である私達を励ます旧約聖書のある物語。
それはダニエル書。
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴと呼ばれる3人捕虜となった若者。
彼らはヘブライの伝統を守ることを貫いた。
自分自身を他の人特別視、異なる存在とすること。
これは現代の私達にも当てはまることである。
世の他の人達に習って、真似をするべきではない。
そこから何を得ることができるだろうか。
世はあなたの人生を向上させることができるだろうか。
イエスに従い、他の人々をキリストに導こう。
単に従うものではなく、リーダーとなって、
人々をイエスに導く。
3人の若者は試練にさらされていた。
ネブカドネザル王は自分に似せた偶像を作り、
拝むことを民に要求していた。
しかし3人はそれを拒否した。
彼らの信仰は拝むことを許さなかった。
あなたの信仰は、彼らと同じだろうか。
ネブカドネザルは激怒した。
金の像を拝むか、火に投げ込まれるかの選択を迫った。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。
「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。 わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
彼らの特徴は次のとおりである。
神に信頼する信仰を疑っていない
神が誰であるかを確信している
善である神は悪に打ち勝つことに信頼をしている
黙示録でも同じような状況が記されている。
第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。
神は、ときに私達を試練にあわせる。
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
神は私達が苦しまないようにすることを保証するわけではない。
しかしそれを乗り越える恵みを与えることを約束している。
信仰が成長することで、怒りで反応することがなくなる。
なぜこの試練が与えられているのか考えるようになる。
そして3人の若者のように、
そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
魂を滅ぼすことのできる方を恐れるべきである。
ネブカドネザルが驚いたこと。それは、3人ではなく、4人が炎の中にいたこと。
神の子のような第4のものの存在。
クリスチャンの歩みは見えるものではなく、信仰による歩み。
時には激しい試練や迫害がある。
しかし主が共におられることを確信することが出来る。
主は私達を支える。
最後には、私達は主の腕の中に迎え入れられる。
この物語から学べること。私達がキリストを代表するのであれば、
この世と同化してはいけない、ということ。
三人の若者のように、愛の中に身を置く。
神にある、より大きな目的。それを明らかにしなければならない。
もし私達が神から離れるか、死ぬかの最終通告を受けたのなら、
パウロの言葉にしがみつくことができる。
私達は落胆することがない。
外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている。
見えるものではなく、見えないものに目を留める。
だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
エスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
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