あれもこれも、失敗じゃない
チャットGPTやお手紙のことを書いた後に、私は、「合理性」ってことについて考え始めている。
「効率化」について考えていると言ってもいい。
そして、そんなことを考えているうちに、「解釈違い」という話題が出てきて、ふと、こんなことを連想してしまった。
何でも、自分で試してみたいって思うことは、人生の中のどこかしらの年齢で、誰にでもあることと思う。自分で一生懸命考えて、精いっぱいやってみてそれでもなかなかうまくいかなくて、もがいて苦しくなる。そんな時に、「こうすればいいんだよ」って先達から教えてもらって出来たりすることがある。
それって、「そういうことだったんだ!」と、目から鱗が落ちて、発見と出来た喜びに満たされる経験だ。分からないことがあったら、分かる人に聞けばいいのだなって学べたりする。
でも同時に、「あ、自分のやり方ではだめなのか」と、少し自分にがっかりする瞬間でもある。
そんな経験が、一回や二回ぐらいだったら、そんなに落ち込まないかもしれない。ここの部分は「自分でどうにかできるし」というものが他にあれば、得意不得意があるのが人間だもの、助け合って生きていけばいいよねと、考えることもできるだろう。
でも、自分より力がある人が、頭の良い人が目の前にいて、常に自分の道を指し示してくれるのだとしたら、それは果たして、楽で効率良くこなせて、何の問題もないことなのだろうか?
人からの手助けは、ありがたい。でも、貰うばかりだと、なぜかどうしても、だんだんと自分の自尊心が、自己効力感が知らず知らずのうちに削られていってしまって、自信が無くなってくる。出来る人が妬ましくなる。そしてそんな自分に嫌気がさしてしまう。
そんなことって、ないだろうか?
「同じ過ちを犯してほしくない」と、親切な人は、優しい大人は、今まで苦労してきた人は考えてくれる。歴史が繰り返されるよりも先達の知恵を学び取り、少しでも先に進んでほしいって本心から言ってくれたりする。
その心が、その思いが、時に自分に絡みついて苦しくなることってあるのだ。そしてそれは、出来ない自分、割り切れない自分だけが抱えている闇だと感じてしまったりする。
でも、きっと、そうではない。
私たちは、間違えるから納得することもあると思う。自分で経験をするから、腑に落ちることもある。うまくいかなかった経験は、世の中の先を行く人たちには、無駄なことかもしれないし、余計な努力と感じられていると思うかもしれない。
それでも、その回り道を、無駄な努力を、ただの失敗だと思わないでほしい。
その失敗も、回り道も、悔しいと思う気持ちも、嫌になってもまた一歩進む努力も、すべて投げ出して逃避している時の自分も、全部が大事な自分の一部だ。
その辛い過程を潜り抜けて生き残って、悩んでいる自分は、自分だけの道の中で、自分なりの経験と気づきを得ているのだ。無駄と思うのは、解釈違いではないか。
先達だって、その経験を無駄と言いたいわけではないだろう。きっと同じ轍を踏んだとしても、その労苦を労いこそすれ、責めたりはしない。
だからこそ、今まで、そうやって戦ってきたあなた自身を、ちょっとは褒めて労って、生き抜いてきた自分は頑張ってきたなと、思ってみてほしい。
失敗の数は、自分が頑張ってやってみた証の数。戦ってきた証。
全てがダメなわけではない。
何も、出来なかったわけではない。
(文責:K.N)
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