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解釈違いは健全に

 オタク用語に、解釈違い・解釈一致という言葉がある。

 例えばあるキャラクターの振る舞いについて、セリフやナレーションで語られなかった場合、そこには解釈の余地がある。オタク同士でその解釈が一致するかしないかというのは結構重要で、時には血を見るような論争になることもある(もちろん実際には血は流れないが)。
 
 これは実はオタクが関心を示すような事柄以外の事象にも当てはまるのではないだろうかと、最近思っている。

 例えば子どもの行動について。例えばある学校に大変多動な子がいたとして、その子についての評価は「楽しい元気な子」となるか「落ち着きがなく厄介な子」となるか。それは場面にも左右されるだろうし、担任の先生が好む生徒像もあるかもしれない。

 ある家庭に、受験を控えながら勉強が手につかずぼーっと他のことを考えているような態度をとっている子がいるとしよう。その様子を見た親から、その子が怠けているように見られるかリフレッシュしようとしているように見られるかは、そこに至るまでの経緯やその子や親のキャラクターなどが関わってくるだろう。ここで親と子の解釈が違っていた場合(多くは親がそれをサボりと見咎めて、それに対して子が「一休みしてたところ」と言い、親が「その一休みが長くない?」などと一言多く返してしまうことになるのではないかと思う)、親子げんか一直線である。

 このように、「解釈違い」は対立の予感を孕んでいる。それも、時には深刻な。

 かつて精神科医サリヴァンは「精神医学は対人関係論である」と言った。極論を言えば、人が一人無人の孤島に住んでいてそこで一人であれこれ解釈している分には、そこには何も起こらないということだ。

 個人の解釈が他者の解釈と出会う時、そこには摩擦や孤立など、さまざまな問題が起こりがちだ。

 ある人から見てAだという事柄でも、他の立場にいる人からはαに見えているかもしれない。こう言ったことは、臨床に限らず日常でもよくあることだと思う。

 但し注意したいのは、解釈が異なることそれ自体は別に悪いことではない。さっきの例で言えば疲れたから一休みすることも、一見してそれをサボりと思うことも、どちらもそれぞれの立場に立ってみれば、決して理解できないことではない。

 問題はそれに付随してくるさまざまな誤解や摩擦である。

 ではそれをどう解決するか。そもそも解釈が違う人とは距離をとる、というのもいい方法だが、そうもいかないことも多い。その時のために、私が最も健やかだと思う方法を記しておく。

 一つ目に、想像力を働かせて、相手の解釈についてあれこれ仮説を立ててみること。二つ目に、言葉を尽くして話し合い、耳を傾けあうこと。そして三つ目は「正しい結論」は出さないでおくことだ。

 相手が、周囲が何を思ったか想像し、自分が何を考えたか、今何を考えているか、それを互いに明らかにして、誤解を解くこと。相手が誰であっても、である。摩擦解消に必要なのは論破ではなく議論だ。矛盾だらけのこの世界で、どちらか一方だけが絶対的に正しいなどということはないのだから。

 立場が、力が、振る舞いがどうであれ、互いの言葉に耳を澄ませれば解釈違いの負の側面は解消できるのではないか。みんな違ってみんないい、とはなりにくいのが世の中で、けれど互いに違うことに折り合いをつけていくには、やはり傾聴と話し合いしかないのではないかと思うが、どうだろうか。

                     (文責:C.N)

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