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待つ必要

最近、待つことが楽しい。

先日、夏から秋にかけて咲く花の種を一気に蒔いたからだ。そして思うのは、植物なんて種を蒔けば生えるでしょ、と簡単に思っていたつい最近までのわたしを今は叱りつけたいということだ。

恥ずかしながら、植物を種から育てることにここまで忍耐力が必要だとは知らなかった。どうやらわたしは自分で思っていた以上に、待てない人間だったらしい。

誰かや何かを待つことは嫌いではないけれど苦手だった。つい待てずに手を出してしまったり、のぞいてしまったり、あれこれと余計なことをどうしてもしてしまう。

たとえば、薬はともかくサプリや化粧品は、昨日使ったら翌朝変化しているところをワクワクしながら探さないだろうか。わたしは探してしまう。まるで猿かに合戦のかにである。

そういう人間にとっては、植物を育てるという作業は長期的だけれどなかなかにエキサイティングである。待つことがどうしても必要になるからだ。

これも自分としてはびっくりしたのだけれど、なるべくほったらかしで世話を焼かなくていい植物がお勧めとされている記事などもあって、それも驚いてしまう。

世話を焼くのが楽しいんじゃないの?植えたらそれでおしまいなの?普段世話やケアをしないといけない立場にあるわたしからすると、新鮮な驚きである。

この一連の作業のおかげで、種まきから育てるのは難しいけれどゆっくりとした変化を待つことは楽しいのだと、少し思い始めてもいる。隣のプランターは芽を出しているのに、こっちはまだ。同じ土を使い、同じような場所に置いていて、同じ頻度で水をやっているのに、だ。植物にも個性があるのか、と感心しきり。

もっとも、その違いがわかるまでには少し時間がかかった。植物なんて、皆が皆さほど変わらないペースで育つものだと何となく単純に考えていたから、先入観というものは恐ろしい。

しかしこの、ゆっくりとした変化を待つ必要があるのは実は人にも当てはまることなのだと思う。人の心の成長曲線は、緩やかでも着実ならそれでいいと、今これを書いているわたしは考えている。特に家族の成長は、急激にががっと変わるよりゆっくりなぐらいがちょうど良くないだろうか。何なら自分の変化もそうである。

変わり続けていく周りを見ていると変化を急かしたくもなるし、急がない(ように見える)相手や自分に自己嫌悪にも陥る。

成長し続けるのにはモチベーションが必要で、そのモチベーションの一つに、変化したことが目に見えてわかることも入るだろう。けれどおそらく、成長とは螺旋階段のようなもので、一見ぐるぐると同じところを回っているように見せかけて、実はしっかりと上昇していくものなのではないか。そして時折成長しているか不安になったら、後ろでなく思い切って下をのぞいてみれば登り口は遥か下方に見えるのではないか。成長とはそういうまどろっこしいものではないかと思う(ただ、螺旋は上の方を見てもキリがないように見えるのが厄介なところである)。

人は生涯成長し続けることを考えれば、案外この発想は的を射ているのではないかと思うが、どうだろうか。

出て来た芽の成長を待ったり、ワインの飲み頃を待ったり、待つ楽しみを与えてくれることはたくさんあるが、待つもどかしさを薄めてくれる楽しみが、そこにはあるのだと思う。そして楽しみは何にでも必要で、楽しみには多くの種類があっても良いだろう。素早く鮮やかな変化に見惚れるのも、楽しみながらゆっくりじっくり待つことも、もちろんどっちもアリなのだけれど、今のわたしは、待つ楽しみに取り憑かれている。

待つというと昔のヒット曲のように、何かに耐え忍ぶような苦しさをイメージしていたのに、だ。この変化は我ながら面白い。

今日はラベンダーの本葉が出た。このまま大きくなってくれるといいなあ。

(C.N)

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