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蒼色の月 #37 「視察旅行①」

どんなに絶望の中にいても、容赦なく朝はやってくる。
夕べは安定剤を、処方されたとおり倍飲んだ。それでもやっぱり眠れなくて一人夫のいない大きなベッドで苦しみ、長い夜を過ごした。

これから私たち家族は、いったいどうなってしまうのだろうか。
怖い…
苦しい…

そんな私にも、もれなく朝はやって来る。
私は起きるなりキッチンへ行き、急いで安定剤を口に押し込む。この白い錠剤は、子供たちに平静を装い、今日も一日なんとか頑張るための御守り。
そんな御守りはないに越したことがないのに。

朝食とお弁当を作り、子供達を起こし、学校に送り出すと私は玄関に座り込んだ。 
薬が倍になったせいだろうか。とても体がだるい。めまいもする。
子供達との気ぜわしい朝の時間を何事もないかのように笑顔で過ごすそれだけで、今日の私は精一杯だった。

私はそこから動けなくなった。
私は事務所に電話をした。
社員が出た。

「ごめんなさい。今日はどうしても体調悪くて休みます。よろしくお願いします」

それから夕方近くまで、私はベッドの上で廃人になった。 疲労と薬で朦朧としている中、携帯が鳴っているのが聞こえふと我に返った。
電話は夫からだった。

「おい、お前なんで休んでるんだ?ちゃんと自分の仕事しろよ。明日は大事な日なんだから絶対に休むんじゃないぞ。わかったな。お前が来ないと事務所は回らないんだから」

今何て言った?そんなことどの口が言う?

勝手に家を出て行って、私に離婚届を突き付けて、私を捨てようとしているあなたがそんなことを私に言うの?

夫が言った大事な日とは、明日から始まる2泊3日の社長会の視察旅行のことだった。夫は初めて参加するこの旅行を、ひどく楽しみにしていた。
設計事務所は夫がいないと、回らない部分も多々有った。その上私もいないとなれば、クライアントにも社員にも迷惑がかかる。
だから明日は必ず事務所に出て来いと夫は言っているのだ。

「…わかりました。明日はちゃんと出勤しますから」

そう言うと電話は切れた。

夫の事務所から、給料をもらわなければ私たち親子は生活していけなくなる。行かなくてはならないのだ。


翌日、私が出社するとすでに社員達が仕事を始めていた。
いつもより早い時間の出社のようだった。
私が事務所に入ると一番古株の社員木村が、いらだつ様子で言った。

「奥さん、昨日所長が早々と帰っちゃって、今日から三日間の引き継ぎがほとんど出来ていないんです。どうしますか?」

「一体どういうこと?」

社員達の話では、昨日夫はその日の仕事も終えないまま社員を残し用事があるからと昼過ぎには帰ってしまったという。翌日から三日間留守にするというのに。

「昨日のうちに目を通してもらいたい書類もたくさんあったんですけど。それもしないで所長は帰られたんで、仕事進められないんです。所長の指示をもらわないと今日の仕事が出来ません。奥さんどうしましょう」

なるほど、夫の机の上には未処理の書類が乱雑に積み上げてあった。いつもは几帳面な夫。こんな光景は今まで見たことがない。

以前の夫は、とても仕事熱心な人だった。
社員を帰しても、1人で夜遅くまで仕事をするような人だった。
それが仕事を放り出して帰る?
それも昼間に?
これから三日間留守になるというのに?

にわかには信じがたいその話。しかし社員がそんな嘘を私に付くはずがない。

「社長に電話してみて。視察旅行の前に出社するつもりなのかも」

「奥さん、私が出社してからもう何度も所長の携帯に電話しているんです。でも全然電話に出ないんです」

「出ないの?噓でしょ」

そんな馬鹿な。
私も夫の携帯にかけてみたが、留守番電話になっていてやはり出ない。
仕事の中には、今日が期限で役所に提出する書類も設計図もあるのに。

いったいどういうことなのだろうか。




mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!