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蒼色の月 #35 「常套句」

「はい、〇〇市役所です」

私はお昼休み設計事務所を抜け出し、車の中で市役所に電話をした。

「あの。弁護士さんの無料法律相談があるって聞いたんですけど…」

弁護士も、法律相談も今までの私の人生には全く縁がないものだった。

「はい、ございます。今月は、ちょうど明後日でしてまだ空きがございますよ」

明後日…
あまりにも急で面食らったが、このチャンスを逃せば次はいつかわからない。

「すみません。できれば明後日でお願いしたいんですが」

無料相談なのに、住所と名前、電話番号と身元の分かる情報をしっかり聞かれたことに少し動揺した。だがそんなことは、もう言っていられない。

夫の不倫問題に関しては、義父母と佐伯先輩以外は友達にも誰にも相談していない。
全部打ち明けて話してしまえば、少しは楽になるのだろう。
しかしそんなことをして、それがもし悪意なく、何かの拍子で漏れたとして子供達の耳に入ってしまったらどうなるか。万が一にもそんなこと、ないとわかっているけれど、それを考えると私は恐ろしくて、誰にも相談する気にはなれなかった。

私が今特に近しい友達は、殆どが子供繋がりのママ友なのだ。

電話を終え、私はまたあの夫のいる設計事務所に戻った。
離婚を切り出されたのに、よく夫の設計事務所になんか行くものだと人は言うだろう。けれど、給料をもらえなくては子供3人を抱えて生きていけない。
夫が家を出て以来、私と子供達は私の給料だけで生活しているのだ。

家族の積み立ての通帳は、夫が持って行ったから。

それが私が事務所に行き続けなくてはならない理由。

いくら離婚問題でもめていても、私が働いている以上、事務所としては給料を払わないわけにはいかない。

この時の私は「婚姻費用」なるものの存在など知らなかった。


そして法律相談の日が来た。
市役所の受付で、玄関脇の長いすで待つように言われた。

目の前をいろんな人が通っていく。
なにも私が悪いことをして相談に来たわけではないのに、なんだか後ろめたくて誰とも目が合わないように私は下を向いた。

庶務課の担当者がやって来た。若い女性だった。

「これに記入を」

と言われ一枚の紙と鉛筆を渡された。
住所、氏名、年齢、電話番号、家族構成。
そして相談内容の欄は、けっこうな大きさで取られている。迷ったあげくにその欄には「夫の不倫」と一言だけ書いた。

それを受け取り、私の目の前で内容を確認するその女性が無表情で、いたって事務的だったことがせめてもの救いだった。

間もなく3つ並ぶうちの、一室に呼ばれて入った。
それは2畳くらいの、とても小さな部屋だった。

「どうされましたか?」

若い男の弁護士だった。

私は不倫から、離婚届を突きつけられるまでの顛末を話した。

「それは大変でしたね。言葉がありません」

「ありがとうございます」

さっきの無表情の職員とはちがい、優しい言葉をかけてくれた弁護士にちょっとだけ緊張がほぐれた。

「でもね、奥さん、一つだけ誤解してることがありますよ」

「誤解?なんですか?」

「離婚の理由についてです」

「夫が言った離婚の理由ですか?」

「はい、そうです。奥さんは旦那さんが仰った、子供が生れて俺が一番でなくなったからという離婚の理由について、気にしていらっしゃるようですが」

「はい。もちろんそれが100%の理由とは思っていませんが。私にそんなつもりはなくても、私が夫を大事にしていないと夫に思わせてしまったことも離婚理由の一つだと…」

「そこです。はっきり申し上げて、それは不倫して離婚を望む男の常套句ですから」

「常套句?」

「そうです。責任転嫁です。ですからそんな言い訳全く気にする必要はありません」

「でも子供が3人産まれて、夫と二人きりの時ほどは夫に構っていなかったのは事実です。正直疲れが勝って、手抜きをしたこともあります」

「そんなこと、当たり前でしょう。子供が3人いて家事があって、仕事もあってその上旦那様にも完璧になんて人どこにもいませんよ。だからそれは気にしなくていいし離婚の理由にはなりません」

そうなんだ、常套句なんだ…離婚の理由にはならないのか。
冷静になって考えれば、先生の話はもっともだ。

「不倫して離婚したい男は、不倫を離婚の理由にすると多額の慰謝料を払う羽目になる。だからわざと奥さんの至らなさを理由にして離婚を求めるんです」

「そうなんですか…」

「奥さんに落ち度があったことにすれば、自分だけが悪いんじゃないそう主張できるから慰謝料もぐっと減るんです。奥さんが至らなかったから、自分はやむを得ず不倫に走ったそういうことにしたいわけです」

ひどい。
そんな計算があって夫はあの言葉を口にしたのか。
あれは話合いではなく、何も知らない私を言いくるめるために来たの?

そこで無料法律相談は時間切れとなった。

「困ったことがあったらご連絡ください」

一枚の名刺をもらうと私はその部屋をあとにした。



mikotoです。つたない記事を読んでいただきありがとうございます。これからも一生懸命書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!