大人と教養とファシズム

大人になるには、教養が必要だ。かの中島らも氏は、教養を孤独に過ごせる手段があることと書いたが、大人が孤独に耐える存在である以上、そういう規定も分からなくはない。教養の度合いが高ければ高いほど大人度が高い訳だ。そして、大人度が高いと他人と連(つる)む必要がなくなっていく。

一方、

基礎教養+世間知+専門=教養

という公式がある。この時、

基礎教養=語学+芸術+哲学

世間知=歴史+政治+経済

で、芸術は文学を含み、哲学は倫理・宗教を含み、専門はたつきの手段(=商売)でもある。

でこれらを修得した教養人達がファシズムへの傾斜の抑止力となりえないどころか、扇動する側に回った。

個人を自由にした「近代」が個人の教化を推し進めるとファッショ化する恐れがあるというのは教養人達を震撼させた。

これがポストモダンの課題である。

「個人」と「全体」の二項があったとき、富国強兵、立身出世、植民地支配のイケイケどんどんの近代的状況では、自己犠牲の英雄的故事を知る教養人は「全体」に与してしまう。

まず、教養を解体する。
語学も漢文や古文はやりたい人だけでいいよ。外国語はひとつで十分。
芸術なんてお高くとまらず、写真でも漫画でもポップスでもロックでも探偵小説でもいいことにしよう。
哲学や宗教学の必須感はなくそう。やりたい人がやればいい。
世間知もほどほどで。

かくして、公式は以下のように書き換えられた。

大人=商売+趣味

反省しすぎちゃうん!

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