【短編小説】汚れた翼の燕
『大仏の 鼻から出たる つばめかな』
小林一茶のこの有名な句を知る数年前。
桜舞う鎌倉で、つばめがよりによって鳩の糞にまみれて、大仏様の鼻から出てくるのを見た。
高校一年のときの初デードで、同じ学校の三年生の彼と一緒に目撃した。
きれいに空に飛んで行く、美しい燕の羽ばたいた羽から、翼についた鳩の糞が私達の足元に落ちてきた。あの奇跡のようにきれいな翼についた鳩の糞は一瞬時を止めてくれた。この瞬間時間がこのまま止まってくればいい、私は私にしかわからない未来の中でそう念じた。
羽ばたく姿のその中で、それは重力の法則に従って、私達の初デードのベンチの前に落ちてきた。
「いやー、きゃー」
二人で大笑いしたのと同時にその人が、言った。
(もう、その人としか呼べない……だね。)
「こういうことってあるよな」
そう「ぼそ」っと照れたように言ったのが印象的だった。なぜだか少し顔を赤らめて…。
照れる必要がないのに照れてしまう男の人が、世の中にはごく少数いる。あの人はそんな男の人だった。
「こういうことってあるよな」
その涼しい笑顔に、私のそれまでのすべてが救われた思いがした。
でもこの後のことを思い浮かべると、救われた思いはすぐに涙に変わった。思わず泣いてしまって、近くの別のベンチに勝手に移動してうずくまった。
彼はゆっくり追いかけてきて隣りに座ってくれた。
黙って優しく肩を抱いてくれた。
鳩の糞で翼を汚された、汚れた燕が大仏様の鼻にいつもどおり戻ってくる。
涙の中にぼんやりそれが見えた。
「忘れられないことってある?」
当然「君はあるの?」を覚悟していたけど、
肩を抱いてくれていただけだった。
聞かないでくれてありがとう。
涙の量が増えていく。
こんな人いるんだね。
甘い陶酔感の中でさらにもたれかかった。
いつまでたっても「君は?」は、なかった。
倒れるふりして、かたから膝にもたれかかった。
ふりをしているのは、ばれてたと思う。
「汚れた翼の燕」はひとしきり自由に空を飛び回ったあと、なぜか私達のベンチの前にいきなり飛び降りてきた
彼が自分のハンカチで鳩の糞を拭いたことに、私は驚かなかった。洗濯してあげるから、そう言って私は奪うように彼のハンカチを取り上げた。
鳩はすっかりきれいになって、大仏様の鼻の中に帰っていった。
そこまで観た後、記憶が薄れていくのを感じた。
彼の暖かい体温が、沈んでいく私の意識をこの世につないでくれていた。
「私は知っている……あなたは私と別れた後」
彼がやさしくキスをして私の言葉を塞いだ。
「別れたりなんかしないよ、ずっといつまでも一緒だ」
キスは言葉を塞ぐものなんだな、と、ちょっと大人の世界を垣間見た。
私は今新宿で占い師をやっている。
驚くべき正確さで人の未来が見通せると評判だ。
私には見えたんだ。
あなたが私とのデートで別れた後、交通事故で他界してしまうこと。
忘れらないこと、あるよ。
忘れないよ、ずっと。
私のことも忘れないでね。
悲しくなると、洗濯したあのハンカチを取り出して涙を拭く。
何度も洗濯しているのに、かすかに糞の匂いがするような気がする。
私はそれを自分の鼻にそっとあてる。
私は今、汚れた燕のように
十分美しいだろうか。
「きれいだよ」
必要もないのに顔を赤らめる。
そんなあのひとの微笑みを私は幻視する。