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アイラブ ニーチェ

昔からニーチェが好きでした。

といっても、読み方はしっちゃかめっちゃか。
前から順番に読まないで、ぱらぱらーっとページをめくってその時にピンときたものを読むという感じです。

ニーチェの本は2つに分類される

ニーチェは大きく分けてアフォリズム系(すこし長めの名言集みたいなもの)と論文形に分かれます。有名な『ツァラトゥストラはかく語りき』は短い言葉で1,000年もの価値を放つような凝縮された言葉が詰まったアフォリズム系です。


論文系は私は『道徳の系譜学』というのが好きなのですが、さすがにこちらは、ぱらぱらめくり作戦には適しません。ただこちら系も、ツボさえ押さえてしまえば、他の難解な哲学者の書物に比べて、とても明快です。

おすすめの本は『善悪の彼岸』も一緒に入ってるこれです。おそらくこの2つはいっぺんに読んだほうが、理解が深まりますのでお得な本だと思います。

『ツァラトゥストラはかく語りき』で好きなところ

このように大きく分けると2つになるニーチェの著作群ですが、この記事では、寝転がってぱらぱらめくり読書ができる、アフォリズム系の『ツァラトゥストラはかく語りき』の面白い箇所をご紹介します。

この本の中で、私は三段階の変容の話が好きです。ニーチェは人間の精神は三段階で発展していくとこの本で説いています。

それはこの三段階です。
第三段階は特に重要なので、そこだけツァラトゥストラからの引用にしてます。

第一段階 らくだ すさまじく重い荷物を忍耐強くえんやこらと運びます
第二段階 らいおん ラクダという下積み時代を終えると、人間は野生の王者となります
■第三段階 こども 子供は無垢であり、忘却である。新しい遊びであり、始まりである。

この比喩は、私たちにも当てはまると思います。それを見てみましょう。


らくだ は自分を鍛える期間

第一段階は義務教育の始まりかもしれません。やりたくもねー勉強を膨大な時間を割いてやらなくてはなりません。塾にも行かされる。学校から帰宅すると家庭教師が待っている家もあるでしょう。

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とっとと学校教育からドロップアウトしちゃうのも、もちろんありです。でも大工さんになるにせよ、料理人になるにせよ、将棋界で名人を目指すにせよ、そこには仕事を覚えるという、義務教育などの比ではない過酷な下積み時代があります。

これが、つまり重い荷物を背負って自分の精神を鍛えているらくだの時代です。

らいおん の時代

下積みを一生やるのはやですよね(^o^)。
例えば将棋を例に取りましょう。将棋は奨励会というところで、子供の頃から大変過酷ならくだ時代を過ごします。

引用したサイトにありますように「満21歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれない場合は原則退会」という厳しい時代を過ごします。

しかし、ここでは下積みも続行しつつ、少年棋士たちは、らいおんになっていきます。

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現役で活躍しているトッププロの本などを読むと、同期はほとんど全員小学生時代の奨励会仲間、友達です。奨励会という狭き門をくぐった彼らは、ひとりひとりが小さならいおんとなり、同期仲間と壮絶な対局をします

それは、自由でのびのびと自分の培った実力を思う存分試せる世界です。もっとも、強くないと、ライオンにはなれずイラストにあるようにチーターでおわったり、しまうまで終わったりしてしまいます。

これがつまりらいおんの時代です。食うか食われるかの弱肉強食の世界を楽しみながら、そして戦々恐々としながら過ごします。

ここまでは分かりやすいと思います。

学校を終えて、就職して企業戦士として活躍していくというのも、まさしくこの流れですよね。

しかし、ニーチェは人間精神の完成段階として、こどもをもってくるのです。その真意は何でしょうか。

こどもの時代

こどもの時代は、らくだになる以前にもう過ごしているはずだよな…。みなさんもこう思うと思います。現代社会では、むかしは楽しく公園で泥だらけになって遊んでいたのに、段々と過酷な競争社会に飲み込まれていきます。

ふつう子供時代というと、このらくだになる前の(らくだになれと大人から、社会から強制される以前の)、いわゆる「こどもは遊ぶことが仕事」時代を思い浮かべます。

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でも、ニーチェはこう言います。

■第三段階 こども 子供は無垢であり、忘却である。新しい遊びであり、始まりである。

子供時代を他の例に例えると…

読書していると人類の英知は、どっかでつながっているもんだよなあ、と思うときがあってそれは、読書の大きな楽しみです。

たとえば、ニーチェが絶対に読んだはずのない世阿弥です。

いちおう定説では、世阿弥は「守破離」という考え方を確立したということになっています(異説あり、少なくとも主著の『風姿花伝』には「守破離」の記述なし)。

このなかに、こんな説明書きがあります。


剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

要するに、習ったことを一旦忘れないと、自由に英会話なんてできませんよ、というやつですね。学校で学んだことがそのまま社会で通用するわけではないので、いったんはそれを忘れたほうが良いというのもこれだと思います。

でも、私はニーチェさんの言ったことはむしろこっちに近いと思います。

ピカソの言葉との類似性


「私は、ラファエルのように描くのに4年かかった。しかし、子供のように描くためには一生かかるだろう。」ピカソ

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他にも色々と、ピカソさんは言っておられます。

このサイトに非常に良くまとまっていますので、一部抜粋させていただきます。

「この年になって、やっと"子どもらしい"絵が描けるようになった。」
「子供はみんな、アーティストなのです。」
「どの創造も、はじめの一歩は壊すことからはじまる」


おとなになってからこどもになることの大切さ

ここで、似て非なるものについて確認しておきましょう。

こどものまんまおとなになっちゃった人というのが、残念ながらあちこちにいます( U_U)。

「おまえ、いったいそれって…」

というあっけにとられるような、絶句してしまうような、こどもじみた(こどもっぽいという肯定的な言葉ではありません)態度を取る大人もたくさんいます。

つまり、人間は、一旦おとなになってから再びこどもになることが必要なんだろうなと、私はそう考えます。

らくだ時代、らいおん時代がないままに、いつまでもこどもの時代から外へ出ようとしない。これでは、本当の子供になれないのではないかと思います。

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おそらくニーチェさんもピカソさんも、言いたかったのはそれではないでしょうか。

もし、こどもが大人と喧嘩したら体力的に負けます。しかしらくだ時代を過ごしていたら、おとなに勝てるようになるでしょう。

しかし、そのときこどもになることができれば、勝てる喧嘩、勝つことが当たり前の喧嘩をわざわざしないかもしれません。

絵画もそうだと思います。こどものように描くと、子供の描いた絵は違います。ラファエルが描けて、初めてピカソの絵画は成立したのだと思います。

アイラブ ニーチェ もしくは、ふたたび子供のようなおとなになるために

そうだ、ニーチェへの手紙を書こう(^~^)

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子供心を残した少年のような大人。かっこいいかもしれませんが、これは決して安易に手に入るものではないと思えます。

子供の心を残すということは、らくだ時代とらいおん時代をきちんと通過した後、なおかつらくだ以前の世界のことを忘れずに、それをらいおん以後の時代に開花させることだと思います。

最近の日本のことをお知らせしましょう。



最近、キレるお年寄りという悲しいニュースを、ちらほら見るようになりました。らくだ時代頑張ってライオン時代に日本経済のファンダメンタルズを確立し、そのあとは…。

私たち次世代の人間は、構造改革と新自由主義で、レールを受け継ぐ前にそれらの戦後の資産を壊したかもしれません。個人はずる賢く成長したかもしれませんが、世代間の成長のバトンタッチに失敗した恐れもあります。

今の日本では、若者の労働環境や安定性はむしろ悪化し、将来の見通しも視界不良の五里霧中です。

ニーチェさん、あなたは見事にらくだ、らいおんを通過して、こどもになりました。残念なことにせっかく書いた『ツァラトゥストラ』の初版は7部しか売れなかったそうですね。

当時のヨーロッパはみんな最終到達地点が らいおん だと思っていたのでしょうか…。確かにあなたの没後、ライオン達による大きな戦争が2回ありました。帝国主義は ライオンのライオンによるライオンのための戦争でした。

その後、「大きな物語」の中でライオンを最終到達目標とするような古い価値観は、あなたの頑張りで、根こそぎ壊れました。

しかし、後先じっくり考えずに、たんにぶっこわしちゃった(爆)、という頭わるそーな側面もあるようです。

かつては日本社会にも「おれは敷かれたレールの上は歩かない」という威勢のよい言葉がありました。

でも、今わたしたちはいつの間にかそんなノーテンキなこと言っているうちに「あれ?レールなんてどこにもない…いつの間にかレールが消えている」とやっと気がついたのでした。

自分で壊したくせにです。あほーです。わたしたち。

今のお年寄りが戦後の焼け野原から敷いたはずの日本のレール。そのレールはらくだでも運べないほど重かったに違いありません。その価値が分からずに次の世代の私たちはそれを壊したのかもしれません。

個人では、らくだかららいおんになることは、競争社会の中で叩き込まれてきました。本屋に行けばそんなハウツー本ばかりで、あなたの本は隅に追いやられています。

数年前あなたのブームでニーチェ本が売れたことがありましたが、いまは新刊書の本屋の棚ではなく、ブックオフの棚に格安で大量に並んでいると思います。あなたの本も私たちは、「小さな物語」の中のハウツー本にしてしまっています。

かつて日本のお年寄りは、こどものように笑っていました。キレるようにしてしまったのは、私たちの世代の軽率なふるまいが原因ということも、少なからずあるように思えてなりません。

おとしよりには、また、いつか日本にあったような、ほのぼのとした夕日の中、縁台将棋でも指して、こどものように笑ってほしいです。

いま私たちはツァラトゥストラの教説を必要としています。

また、生きていくヒントを教えて下さい。

アイラブ ニーチェ

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