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美術館の新しい開きかた。「作品のない展示室」の個人的記録

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コロナ禍の2020年3月〜9月の記録。「作品のない展示室」で妙に注目されてしまった東京・世田谷美術館の中から見えていたこと。こんなふうに新しく開くこともできる、という発見の日々。
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#美術館

先は見えたり見えなかったり。でも日々は続く。【美術館再開日記30・ここで一区切り】

コロナの自宅待機中に、語学アプリ「Duolingo」にハマった。毎日コツコツなんて苦手だったのに、105日も続いた。なので、区切りをつけた。日記も同じ。思いがけず100日続いてしまったので、ここらで一度やめようと思ってやめた。続けること自体が目的になるのは嫌いである。あまのじゃく。 でもやっぱり書くことが出てくれば、書けばいい。というわけで101日目からの3日間分を、やっぱりと思って手短かにまとめた。で、おかげでやっぱり、それで一区切りつけようと思えた。少なくとも「美術館再

お金がなくてもあそこには行っていい、居ていい、と思える場所。【美術館再開日記29】

この「再開日記」も、あと少しで終わりになる。臨時休館明けから「作品のない展示室」を経て、もうすぐ100日というあたり。まだまだ「非常事態」は抜けていないけれど、あの猛暑は去って、季節は移ろう。今回は、広報担当者とのランチでの会話。まだまだ先は見えないけれど、1ミリずつくらい、変わっていけるといい。 美術館再開94日目、9/19。涼しい。広報担当の思い。 連休初日、都内コロナざっと220人。 今日は広報担当者と2人でランチ。 「作品のない展示室」の取材記事が まだ出続けて

頼まれもしないのに、必死でやっていること。記録を残すこと。【美術館再開日記26】

頼まれてもいないし期待されてもいないのに、必死でやってしまう。それをやっておかないと何かが致命的に欠落する、と直観したときはほぼそうだ。でも見方によっては、たいていの「お仕事」にそんな「致命的」なことはなかったともいえる。少なくともお金の使い方で大失敗したことはない。 私の「致命的!」センサーが働くのは、忘却、という事態に対してのことが多い。忘れ去られている大切なことを、見つけてしまったと思う場合。 忘れ去られてはいけないことが、いま起こっていると思う場合。 前者の「忘却

なぜ、あの募金箱はいっぱいになったのか。【美術館再開日記25】

日々いろいろびっくりが続いた「作品のない展示室」だが、なかでも募金箱には驚愕した。置いたのは初めてで、とりあえずやれることをやる、の一環だった。最終日、箱は、ぎっしり埋まっていた。たくさんの小銭と、何十枚もの千円札で。 「お願いだからお金を払わせてほしい」というつぶやきをSNS上で見かけたときは、そう感じていただけた方もいるんだな、とは思った。ありがたい限りだ。何も作品がないのに。そう、美術館の中の人間にとっては、「作品を見せる」ことに対して(のみ)対価をいただくのが常識で

コレクションのささやかな物語に、こころ惹かれる人が増加中?【美術館再開日記22】

メディアが入る華々しい企画展と、地元作家などをフィーチャーする地味なコレクション展。ここ20年のあいだに、地味な後者に対する注目度がじんわりとアップしてきたな、という体感がある。日本各地の美術館学芸員が地道に努力してきたことに加え、観客の側も少しずつ変化した年月。 その努力と変化のあいだにどれほどの因果関係があるかはわからない(20年くらいではまだわからない)。でも一般論として、地に足のついた営みに好感や関心を持つ人たちが以前よりも増えていることは、確かだと思う。コロナは間

誰もが、等身大の自分の体験を語りたくなった企画。【美術館再開日記21】

「作品のない展示室」は、最終的に17,000人近くが訪れた。東京郊外のたいして大きくもない美術館としては、けっこうな数である。SNSには日々たくさんの写真とコメントが現れた。ハッシュタグ付きでツイッターとインスタに流れたものは、ほぼすべて目を通したと思う。とってもおもしろかった。 写真でダントツで多かったのは、当然ながら扇形展示室のパノラマ的借景を撮った「ど定番」イメージだ。私もけっこう撮った。やっぱりきれいだし。↓ ところが、会期終盤が近づくにつれ、様子が変わった。ちょ

雑談と脱線(だけ)からなるクリエイティビティ?【美術館再開日記28】

子どもたちとボランティアのおっちゃんおばちゃんのワイワイが聞こえない世田谷美術館は、まだ「日常が戻った」とは言えない。そういう事業を担当しているセクションの同僚たちは、つまり今も「非常事態」のなかにある。9月、1階でも展示が再開すると、それがいきなり見えにくくなった。それが危ない。 前回の記事でも書いたが、当館はたくさんの「外の人」、つまりボランティアが関わっている館である。来館者向けのプログラムをつくる「普及セクション」のスタッフは、その「外の人」たちから大小さまざまな知

ボランティアのおっちゃんからの贈り物。「盛らなくちゃな!」【美術館再開日記27】

今回は当館の愛すべきボランティアのおっちゃん(日記では「やんちゃさん」)、またまた登場である。 何度か書いているが、世田谷美術館のボランティアは「そのへんのおっちゃんおばちゃん」が主力だ。区立小学校の4年生(ざっくり5000人)が毎年全員やってくる当館では、彼ら彼女らが大活躍する。もう20年以上になる。登録者数は500人、実際活動しているのはたぶん200人。毎日来る人もいれば、年に1回ふらりと来る人もいる。なんでもOK。 その子どもたちもボランティアも、このコロナ禍で来れ

イベントも展示も、撤収は一瞬。切なさと、サバサバ感と。【美術館再開日記24】

これまた多くのクリエーションの現場で体感されていると思うが、「終わり」を迎えた時の感覚。全てのものは終わってゆく、自分たちでつくったものを自分たちで壊して、きれいにかたづけて次に譲る、という切なくサバサバした、あれである。「壊す」、というのは本の現場では起こらないかもしれないが、展覧会や舞台などの空間は、つくっては壊して次に譲る、を繰り返す。まさに無常。頼れるのは人の記憶に刻まれることと、映像か写真か文章で残すこと。展覧会担当者にできることは後者だ。この儚さに耐えられないから

縁の下の力持ち、事務方スタッフの真剣なウキウキが嬉しい。【美術館再開日記23】

どんなジャンルのクリエーションの現場もそうだと思うが、強力な裏方なしにはことが進まない。舞台芸術であれば、公演パンフレットに照明や音響はもちろん受付事務に至るまで、ほぼ全関係者の氏名が載るが、美術展の場合はそういう慣習がない。しかし名前が出ようが出まいが、たくさんの裏方が日々全国の文化施設で働いている。もちろん当館でもである。 「作品のない展示室」の最終日にパフォーマンス「明日の美術館をひらくために」を行うにあたり、コロナで非公開にせざるを得ないとなって、ならば館内スタッフ

来場者1万人越え、の「作品のない展示室」でリハーサル開始。【美術館再開日記20】

「作品のない展示室」最終日のクロージング・プロジェクト、「明日の美術館をひらくために」。そのパフォーマンスのアイディアが生まれたのは6月25日、展示室はいまだ閉めっぱなしで、職場にはオンライン会議ができる環境もなかった。休みを取って自宅でpcに向かい、振付家・ダンサーの鈴木ユキオさん、そして彼のパートナー安次嶺菜緒さんと、Zoomで会う。コロナ感染拡大を睨みながら敢行した彼らの自主公演を観たのは3月、なんと昔に感じることか。以下、日記には書かなかったが忘れたくないことを、書い

「狂人」のダンス。文化イベントのお値段。「戦後」75年目の国で。【美術館再開日記19】

後半は少々なまなましい話かもしれない。前半と後半はどうつながっているのか、と思われるかもしれない。8月なかばに観た「狂人」のダンスと、メディアがらみの大型展覧会の話。つないでくれたのはたぶん、ドナルド・キーンの自伝だ。 いわゆる終戦記念日の前後から、キーンさん(知り合いでもないのにこう呼びたくなる)の自伝を読みはじめていた。和訳もあるが、若き日のキーンさんの写真が魅力的な原書の方をあげておく(山口晃のカラー挿絵入り)。この人がどんなふうに日本の文化に出会ってきたか、それはこ

ボランティアのおっちゃん、コロナひとり旅から戻る。【美術館再開日記18】

10月から東京もGoTo解禁だとか。移動することがこんなにも注視(というか監視)されるコロナ時代。ものすごく我慢する人も多い。でもやむにやまれず、旅に出る人もいる。人はいろんな事情を抱えて生きている。 美術館を居場所のように使う人たちはいろんなタイプがいると思うが、美術を介してそこで誰かに出会えるから通う、という人がけっこういる。高齢者比率が高い当館のボランティアの皆さんは、ほぼそうである。仲間に会えたり子どもに会えたりするから、通う。家族を失ったりして、ますます足しげく通

「地域の物語」を、スリリングに語り続ける劇場。【美術館再開日記・番外編2】

1986年にできた世田谷美術館の地域密着度はかなりのものだが、1997年にオープンした近隣の劇場、世田谷パブリックシアターも、長年地道な教育活動を続けている。学校に演劇公演の出前をしたり、劇場で長短さまざまな日程で、いろいろな方を対象にした演劇ワークショップをしたり。 美術館で長くいっしょにワークショップをつくっている柏木陽さん(NPO法人演劇百貨店代表)は、このパブリックシアターでのキャリアも長い。3月はいつも「地域の物語」というワークショップ・シリーズのファシリテーター