ムゲンのi下巻装画

【ムゲンのi】   試し読み

ムゲンのi上_書影

とうとう、今年の勝負作『ムゲンのi』が全国の書店さんに並び始めました。

命を削り、魂を込めて書き上げた私の最高傑作です。

皆様、ぜひ手に取ってみてください。

試し読みとして、数十ページ分をこちらに公開させて頂きます。

よろしければご一読ください。

めくるめく、夢幻の世界ひご堪能下さい。



プロローグ

 やけに重い瞼を持ち上げると、天井が見えた。
白い、吸い込まれてしまいそうなほどに真っ白な天井。
「ここは……?」
 唇の隙間から零れた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。口が、そして喉がからからに乾燥している。乾いた砂を呑み込んでしまったかのように。
 霞がかかって思考がまとまらない頭を振って起き上がろうとすると、まるで全身の関節が錆びついているように軋み、痛みが走った。
 歯を食いしばった私は、両手を使ってなんとか上体を起こす。体にかかっていた薄い毛布がはらりとはだけた。
 重い頭を再び振った瞬間、全身に冷たい震えが走った。脊髄に氷水を注がれたような心地。慌てて自分の胸元に触れる。羽織っている服の薄い生地を通して、コンプレックスである小振りな乳房の感触が伝わってきた。
「あった……」
 安堵の吐息とともに、そんな言葉が漏れる。
 胸に大きな空洞があいているような気がした。手で触れてそれが錯覚であることを確認したいまも、その感覚は消えない。
 食道、肺、そして心臓。それらの臓器が抜き取られ、胸郭が空っぽになってしまったような心地。重心が安定せず、気を抜けばふわふわと浮き上がってしまいそうだ。
 両手を胸に当てたまま目を閉じ、強風に耐えるかのように体を小さくする。そうしないと体が、心が、『自分』という存在が吹き飛ばされてしまうような気がした。
 ふと強いデジャヴが襲ってくる。かつて、私は同じような経験をしている。
けれど、いつ……?
 意識を脳の奥、厚く積み重なった記憶の底へと落とし込んでいく。やがて、セピア色に変色した記憶が弾けた。狭い部屋の中、ダンゴムシのように体を小さくした子供。二十三年前の私が咽び泣いている光景が。
 両頬に冷たい感触をおぼえた私は、慌てて瞼を上げて目元を拭う。手の甲が透明な液体で濡れた。手を口元に持ってきて舐めてみる。かすかな塩気がふわりと舌を包み込んだ。
 あの日と同じ味。
 ああ、そうか……。私はまた喪ったのか。
とても大切な物を。
 私は天井を仰ぐ。
 蛍光灯の明かりが滲み、七色の光となって煌めいた。



第1章  夢幻の大空

      1
 
 光沢を孕む白くきめ細かい肌。陶器を彷彿させるそれはどこか無機質で、精巧に作られたマネキンを見ているような心地になる。
 ふと不安をおぼえた私はそっと指を伸ばして、彼女の頬に触れた。指先がほんのりと温かくなる。皮膚の下に張り巡らされた毛細血管を流れる血液の温度。
 小さく安堵の息を吐きながら、私は彼女の顔を見つめる。固く閉じられた瞼が細かく震え、その下で眼球がせわしなく動いているのが見て取れた。
 急速眼球運動。レム睡眠と呼ばれる睡眠状態で起こる現象だった。
 レム睡眠中は全身の筋肉が弛緩し、身体は休息状態にあるが、その一方で脳は活動している。人はその状態のとき、鮮明な夢を見ていることが多い。
 彼女もいま、夢の中にいるのだろうか?
 私は彼女の目元に手を当てる。掌にかすかな振動が伝わってきた。
 浅い眠りであるレム睡眠中の者は、弱い刺激でも目を覚ましてしまいがちだ。けれど、彼女が起きる心配はなかった。いや、それどころか、できれば起きて欲しかった。
 なぜなら、彼女は四十日間も眠り続けているのだから。
 私は視線だけ動かし、ベッドの頭側にかかっている札に視線を送る。そこには『片桐飛鳥』という彼女の名前の下に、主治医として『識名愛衣』と私の名が記されていた。
 乾いた笑いが唇の隙間から漏れる。主治医、主に治す医者。けれど、私は彼女に襲い掛かった病魔をまったく治すことができていない。特発性嗜眠症候群(Idiopathic lethargy syndrome)、通称『イレス』。それが彼女の患っている病だった。
 夜、普通に眠っていただけの者が、そのまま目を覚ますことなく延々と昏睡に陥る奇病。これまで、世界でもわずか四百例ほどしか報告されていない疾患で、それゆえに未だ治療法すら確立していない。
「なんで四人も……」無意識に零れた独り言が、部屋の空気を揺らす。
 現在、私が勤めるこの精神神経研究所附属病院には四人ものイレス患者が入院していた。
 日本では数年以上、発症例がない疾患の患者が四人。それだけでも異常事態だが、さらに奇妙なのは、四人が同じ日にイレスを発症したことだ。
 極めて稀な奇病が同時に発生。しかも、患者たちが住んでいたのは、東京の西部に偏っている。いったいこれは、なにを意味するのだろう? この四十日間、昼夜を問わず答えを探してきていたが、未だにそのヒントすらつかめずにいた。
 所属する神経内科の部長に「こういう貴重な症例は、未来のある若者が診るべきだ」と押し付けられ、私は四人のイレス患者のうち三人を担当していた。
 もし私が治療に成功しなければ、彼らは眠り続けることになるだろう。その命が尽きるまで。
「……そんなことは絶対にさせない」
 小声でつぶやいたとき、軽い頭痛が走った。側頭部を押さえながら再びベッドに横たわる女性を見た瞬間、彼女の顔に他の女性の顔が重なった。嫋やかな曲線を描く唇に、かすかに笑みを浮かべた優しげな女性の顔。
 心臓が大きく跳ねる。全身の毛が逆立った気がした。私は頭を激しく振って、じんわりと浮かび上がりつつあった古い記憶を、再び脳の奥底へと沈み込ませていく。
私はもう、なにもできなかったあの時とは違うのだ。もう二度と、胸が苦しすぎて、心臓を取り出してしまいたいと願うようなあの経験を思い出す必要なんてない。
自らに強く言い聞かせつつ、踵を返して出口へと向かう。
「絶対に助けるから。……今度は絶対に」
 口の中で言葉を転がしながら、私は勢いよく引き戸を開いた。



 湿度の高い空気がじっとりと肌に纏わりつく。白衣の襟元から覗くうなじをハンカチで拭った私は、ため息とともに窓の外に視線を向けた。
 病室を出てナースステーションに戻ってから、ずっと電子カルテのディスプレイと睨めっこをしていた。鉛でも詰め込まれたかのように目の奥が重い。
 目の周りをマッサージしながら、遠くを眺める。日本最大規模を誇る神経疾患、精神疾患の専門病院である精神神経研究所附属病院、通称、神研病院。十三階建てのコンクリート要塞の九階にあるこの神経内科病棟からは、練馬の住宅地が一望できた。
わずかに首を反らせて視線を上げる。空を覆いつくす黒く厚い雲から、大粒の雨が止め処なく落ちていた。ここのところ、ずっとこんな天気が続いている。最後に太陽を見たのがいつなのか、すぐには思い出せないくらいだ。どうにも気が滅入ってしまう。
 胸の奥に溜まった澱を、ため息に溶かして吐き出していると、私はキーボードの隣に積まれている資料の山に手を伸ばした。質の悪いコピー用紙特有の、ざらついた表面を指先でなぞる。
「よっ、愛衣ちゃん」
 明るい声とともに肩を叩かれた。振り向くと、小柄ながらグラマラスな女性が腰に両手を当てて立っていた。一つ年長の神経内科医である杉野華先輩。やや派手目のメイクが施された顔には悪戯っぽい笑みが浮かび、トレードマークである大きな丸眼鏡の奥の目が細められている。
「ああ、どうも、華先輩」
「どうもじゃないよ。なんか色っぽいため息ついちゃってさ、もしかして恋煩い?」
 華先輩はしなだれかかるように後ろから抱き着いてきた。背中が温かい柔らかさに包まれる。
 出身大学が同じで医学生の頃からの知り合いであり、外見に似合わず姐御肌なところがある華先輩とは、普段から仲良くさせてもらっている。しかし、この過剰なまでのスキンシップにはいささか辟易もしていた。
「離れてくださいよ。ただでさえ、暑苦しいのに」
「そうだねぇ。最近、本当にじめじめしているもんね。梅雨とはいえ、さすがに降りすぎだね」
 私に振り払われた華先輩は、横目で窓の外を眺めた。
「で、新しい恋人でもできそうなの?」
「そんな色っぽい話じゃないですよ。先輩の方こそどうなったんですか? 前の恋人とよりを戻したりとかはないんですか?」
 華先輩はこの神研病院を運営する医療法人の理事長の孫である精神科医と交際していたが、「彼と話していると、精神科の問診をされているような気分になるのよね」などと言って、先日フッていた。周りからは「玉の輿のチャンスだったのにもったいない」などと言われていたが、華先輩本人は「私みたいないい女逃したあいつの方がもったいないのよ」と、どこ吹く風だ。
「ないないない」華先輩は顔の前で手を振る。「あんな面倒な男、別れられてせいせいしたんだからさ。それより、恋愛系の話じゃないなら、なんであんな色っぽいため息ついてたの?」
「色っぽいかどうかは知りませんけど、この人たちのせいですね」
 電子カルテのディスプレイを指さすと、にやけていた華先輩の顔が引き締まる。
「イレス……か」
「ええ、しかも三人も。というか、華先輩も一人、担当しているんでしょ。イレスの患者さん」
「まあね。しっかし、本当に訳が分からない病気よね、これ。教科書とかにはよく載っているけど、実際に患者を担当するのはこれがはじめて」
「そりゃそうですよ。これまで、全世界でも四百例ぐらいしか報告がない疾患なんですから」
華先輩は「だね」と、顔をディスプレイに近づけて、眼鏡の位置を直した。
「愛衣ちゃんが担当している三人は、イレスだっていう診断は間違いないの?」
「それに関しては、色々な先生にコンサルトして確認を取りました。全員のドクターがイレスで間違いないって診断しました。全ての診断基準が当てはまっていますから」
「診断基準ねえ。睡眠状態からなんの前触れもなく昏睡に陥り、その状態が一週間以上続く。脳波検査によってレム睡眠状態であると確認される。昏睡状態になるような他の神経疾患、内分泌疾患、外傷が否定される。だっけ?」
 華先輩は指折り診断基準の項目を挙げていくと、首筋を掻くいた。
「つまり、なんの前触れもなく昏睡に陥って、ひたすら夢を見続けるってことでしょ。本当によく分からない病気。でも一番分からないのは、そんなに珍しい疾患の患者が、四人もうちに入院していること」
「うちの病院は神経難病の治療に関しては、日本有数の医療施設ですからね」
「そういうことじゃなくて、なんで歴史上四百人程度しか確認されていないような疾患の患者が、四人も同時に現れたのよ? それって、普通に考えたら天文学的な確率なんじゃないの。しかもその四人って、同じ日にイレスを発症したんでしょ。さらに、四人ともこの付近の住人。こんなの普通に考えたら、ありえないでしょ」
「でも華先輩、これ見てください」私はコピー用紙の山から、数枚を抜き出す。「これまで、イレスが同時期、同地域に発生したって報告が幾つかあるんですよ。ほら、この論文とか」
 華先輩は「え? ほんと?」と目をしばたたかせながら、英字の論文を手に取る。
「一九九〇年代から、イギリス、ブラジル、アメリカ、南アフリカで集団発生が確認されています。特にブラジルではしっかり診断されたのは三人ですけど、他にも同時期に周辺で十人以上の人が似たような症状になったとか」
 素早く論文に目を通した華先輩は、髪を掻き上げた。
「この疾患がはじめて発表されたのって一九八七年でしょ。それまでにもイレスにかかった人って結構いたのかもね。けれど、たんなる原因不明の昏睡だと思われていた。それにしても愛衣ちゃん、もしかしてそこに山積みになっているの全部、イレスについての論文だったりする?」
「はい、そうです。徹夜して、大学の図書館で片っ端からコピーしてきました」
 私がコピー用紙の上に手を置くと、伸びてきた華先輩の指先が目元を撫でた。
「一生懸命なのは良いけどさ、あんまり根詰めすぎちゃダメだよ。ほら、目の下。アイシャドーみたいに濃い隈ができてる」
「でも、こんな珍しい疾患を三人も担当させてもらっているんですよ。全力を尽くして治してあげないと。そのためにも治療法を……」
「治療法、分かったの?」私のセリフを遮るように、華先輩は言葉をかぶせてくる。
「……分かりません」
「だよね。私も色々調べたけど、有効な治療法の記載はなかった。でも、予後が絶望的に悪いわけじゃないのよね。三分の一の患者は、後遺症もなく昏睡状態から目覚めているし。ただ……」
「ただ、残りの患者は死亡するまで二度と目覚めることはない。そして、昏睡から回復した人たちも、どうして目覚めたのか分からない。原因も治療法もまったく不明」
 私がセリフを引き継ぐと、華先輩は「そういうこと」と、隣の椅子に前後逆で腰掛けた。
「四人も同時にこんな珍しい病気になるってことは、なにかきっかけがあると思うんだ。患者さんたちになにか共通点とかないのかな? 例えば、同じレストランで食事してたりとかさ。そういうのがあれば、食中毒が原因かもしれないって想像できるじゃない」
「私の担当する三人に関しては、ご家族とか関係者の方々から詳しく話を聞きましたけど、いまのところなにも見つかっていません。でも……」
 私が口ごもると、華先輩は「でも、なに?」と顔を突き出してきた。
「三人とも、最近すごく落ち込んでいたらしいんです。生きているのが嫌になるぐらい辛いことがあって、落ち込んで、苦しんで、……もがいていた」
 かつての私のように……。背中から肩にかけて重くなっていく。砂嚢を両肩に担いでいるような心地になり、私は両肘をデスクについて前のめりになる。
「ちょっと、愛衣ちゃん。大丈夫?」華先輩が慌てて背中を撫でてくれた。
「……大丈夫です。少し疲れているだけで」
「あのね、愛衣ちゃんももう二十八歳でしょ。若いつもりだろうけど、そろそろ私たちも、学生時代みたいには無理が利かなくなってきているんだよ」
「でも!」私は顔を跳ね上げる。「でも、このままじゃ救いがないじゃないですか! 人生に絶望したまま眠って、二度と目覚めることがないなんて。そんなの……そんなの、あんまりです!」
 華先輩を睨みつけながら肩で息をしていた私は、はっと周囲を見回す。少し離れた位置から数人の看護師が、訝しげに、それでいて好奇心で満ちた眼差しを向けていた。頬が熱くなってくる。
 俯いていると、「愛衣ちゃん」と柔らかい声をかけられた。視線を上げると、華先輩が慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。普段の女子高生のような態度とは一線を画する、大人の女性の笑み。思わず「はい」と背中が伸びる。
「そうやって、患者さんに親身になって治療に当たる姿勢は素晴らしいと思うよ。けれど、それも行き過ぎると欠点になる。いつも言っているでしょ」
 私は無言であごを引く。
「いまの愛衣ちゃんは患者と自分を同一視しかけている。そうなると、冷静に診療することはできなくなって、患者にとっても愛衣ちゃん自身にとっても不幸なことになる。分かる?」
「……はい、分かります」
「そりゃ、イレスなんていう、超レアな患者を三人も担当して入れ込むのは、神経内科医として分からないでもないけど、ちょっと今回は力が入りすぎじゃない? なんかあったの?」
 華先輩は首を傾けると、下から覗き込むように私の顔を見てくる。脳裏に過去の記憶が弾けた。さっき、病室で必死に振り払った古い記憶。
 ベッドに横たわる、若く美しい女性。私は彼女に向かって手を伸ばす。もみじ饅頭のように小さな手を。きめ細かく、滑らかな、彼女の黒髪を私の指先が梳いていく。
 毎朝そうすれば、彼女はくすぐったそうに身をよじって、微笑みながら目を開けてくれた。
 けれど彼女の瞼は降りたままだ。眠っているだけにしか見えないのに……。
 胸の奥底から湧いてきた、包み込むような懐かしさが、唐突に冷たく硬い鉄の鎖となって心を締めつけてくる。それと同時に、『あの時』の光景がフラッシュバックした。
 響き渡る悲鳴と怒号。逃げ回る人々。その隙間から見えるメリーゴーラウンドとジェットコースター。逆光のなか私を見下ろす大きなシルエット。私に手を伸ばす女性。そして彼女の手が触れた頬に感じる、ぬるりとした生温かい感触。
 私は軋むほどに固く歯を食いしばり、こぼれそうになった悲鳴を飲み下す。
 ここ数年、ほとんど発作は起こっていなかった。もう乗り越えたと思っていた。それなのに最近また、『あの事件』の記憶が私を蝕みはじめていた。
 イレスの患者を担当するようになってから。
 トラウマを克服したわけではなかった。ただ、それから目を逸らす術を身につけたに過ぎなかった。まざまざと見せつけられたその事実に、私はここ数週間、苛まれ続けている。
 けれど、三人の患者たちを治すことができたら、あの時の彼女と同じように眠り続けている人々を、深い闇の底から救い出すことができたなら、本当にあの悪夢を乗り越えることができるかもしれない。そんな予感に駆り立てられていた。
「まあ、力を抜くこともおぼえなってことだよ。緊急性の高い疾患ってわけじゃないんだから、腰を据えて治療方針を立てていけばいいんだよ。情報共有しながら、治療法を探っていこ」
 私の様子を見てなにか察知したのか、華先輩は早口で取り繕うように言う。
「ええ、そうですね」
 笑おうとするが、顔の筋肉がこわばり、自分でもおかしな表情になっているのが分かる。
「情報共有と言えば、華先輩が担当しているイレスの患者さんってどんな人なんですか?」
「私の患者さん? うーん、そうねえ……。私たちと同年代の女性かな」
 華先輩はなぜか曖昧な口調で答える。少し目を泳がせながら。
「もしかしてその人にも、最近なにかつらいことがあったりしていませんか?」
「つらいこと、か。さあ、どうだろうねえ。ただ、その可能性が十分にあるかな。ちょっとね、嫌な噂が耳に入ってきているんだ」
「嫌な噂ですか?」
「実はその患者さんね、最近話題になっている殺人事件の関係者かなにからしいの」
「殺人事件!?」予想外の言葉に、声が裏返ってしまう。
「近頃話題になっているでしょ。都内で起こっている連続殺人事件。深夜に人気のない路上で、通行人が殺される通り魔殺人」
「通り……魔……」
 その単語で、頭から消えていた『あの事件』の光景が、再びフラッシュバックした。さっきよりも、はるかに鮮やかに。
 欠片ほども感情の浮かんでいない爬虫類のような双眸。そこから私に浴びせられる氷のような視線の冷たささえ蘇ってくる。
 足が細かく震えだす。その震えはやがて、腰、胸、そして顔へと這い上がってきた。
 底なし沼のような絶望に呑み込まれていく感覚。氷点下の世界に裸で放り出されたかのような寒気におそわれた私は、瞼を固く閉じると、両肩を抱いて体を小さくした。
 顔がふわりと、温かいものに包まれた。我に返って目を開けると、いつの間にか華先輩が私の頭を抱きしめてくれていた。白衣の薄い生地を通して、沈み込んでいくような柔らかさ、そしてその奥から響く心臓の鼓動が伝わってくる。
「大丈夫だよ、愛衣ちゃん。大丈夫だから……。ごめんね、変なこと言っちゃって」
 私の過去について全て知っている華先輩は、転んで泣く我が子をあやすように、優しく髪を撫でてくれる。ああ、これでまたナースにおかしな噂を立てられるかもな。そんなことを思いながら、私は胸に吹き荒れる嵐が凪ぐまで、華先輩の豊満な胸に顔をうずめ続けた。


「もう大丈夫です。ありがとうございました」
 二、三分経っていくらか落ち着いた私は、気恥ずかしくなって身を離す。
「あれ、もういいの? 私の胸なんかでよければいつでも貸すから、飛び込んできていいよ」
 華先輩は芝居じみたしぐさで両手を広げた。
「あの……、本当にありがとうございました」
 華先輩の突き抜けて陽性の性格は、うじうじと思い悩みがちな私の支えになってくれる。
 私は深呼吸をしながら、意識を自分の内側に落とし込んでいく。華先輩のおかげで、いくらか落ち着くことができた。しかし、再び燃え上がってしまったトラウマは残り火のように燻っていた。きっかけがあれば、また火柱を噴き上げ、心を焼き尽くしてしまうと確信できるほどに。
「ねえ、愛衣ちゃん、院長に会ってきたら」
 華先輩に不意に言われ、私は目をしばたたかせる。
「え、院長? 袴田先生に?」
「そう。院長ってPTSDとかの専門家でしょ。患者たちが精神的に不安定だったっていうなら、そのこととイレスの発症になにか関連があるかも。なら、院長に相談してもいいんじゃない?」
「でも、袴田先生も忙しいでしょうし……。それに、私も病棟業務が残っていますし」
「大丈夫、大丈夫」華先輩はパタパタと手を振る。「交通事故で大怪我してからあのおっさん、副院長に押し付けられた書類仕事ばっかりやってるから、どうせ院長室で暇を持て余しているよ。だから、アドバイスもらってきなよ。病棟業務の方は、私がやっておくからさ」
 艶っぽくウインクをする華先輩の意図に気づき、私は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「気にしない気にしない。困っているときはお互い様だからね。でもね……」
 華先輩の顔に、からかうような笑みが広がる。
「恋愛対象にするなら注意しなよ。あんなダンディーなのに四十代まで独身ってことは、絶対に裏の顔をもっているんだよ。実はやばい性癖持っていたりさ」
「そういうんじゃないです!」
 頬を紅潮させて叫ぶと、華先輩は「なはは」と快活に笑った。


     3
 胸に手を当てて息を吐いた私は、『院長室』と表札のかけられた扉をノックする。精密な細工が施された重厚な扉越しに、「どうぞ」という声が聞こえてきた。
「失礼します」
 扉を開いて中に入ると、十畳ほどの部屋が広がっていた。高級感を醸し出している応接セットの奥に置かれたアンティーク調の木製デスク、その向こう側で壮年の男性が新聞を広げていた。
 シックなスーツを着こなした細身の体。白髪が混じり、グレーにも見える髪を短く切り込んだ頭。すっと通った鼻筋と、強い意志が宿った切れ長の目。久しぶりに会う彼のやや枯れた魅力に、心臓が一度大きく鼓動を打つ。
「ああ、愛衣君か。なにか用かな?」
 新聞を折りたたむと、精神科医にしてこの病院の院長でもある袴田聡史先生は口角を上げた。
「あの……、ちょっとご相談がありまして……」
 どう切り出せばいいのか分からず口ごもっていると、袴田先生が滑るように移動する。デスクの陰から車椅子が姿を現した。口元に力がこもってしまう。
「なかなかうまくなっただろ。おかげで事故に遭う前より、腕が太くなったよ」
 ホイールを器用に操作して近づいてきた袴田先生は、冗談めかして力こぶを作る。
「お加減はいかがですか?」
「絶好調だよ、腰から上はね」袴田先生は自分の膝を軽く叩いた。
 数週間前、彼は交通事故に遭った。SUVにはねられ全身を強く打ち、意識不明の重体となったのだ。幸い一命を取り留めることができたが、事故の爪痕はその体に深く刻まれている。
「歩けるようには……?」
 首をすくめながら訊ねるが、袴田先生は哀愁の漂う笑みを浮かべるだけだった。
 重い沈黙を振り払うように、袴田先生は両手を合わせる。パンっという小気味いい音が響いた。
「さて、それじゃあイレス患者について、話を聞こうか」
「……え?」
「違ったかな? イレスの治療について悩んでいるから、相談しに来たんだと思ったんだが」
「は、はい、そうです。でも、なんで分かったんですか?」
「君がイレスの患者を担当すると聞いたとき、こうなるかもと予想していたんだよ。あの疾患の症状は、君に過去のトラウマを思い出させるだろうからね。だから、止めようかとも思った」
「……なら、なんで止めてくださらなかったんですか?」
 声に非難の色が混じってしまう。たしかに、世界的にも珍しい疾患の患者を担当することは、臨床医として喜ぶべきことだ。けれど、もし彼らの主治医にならなければ、心の傷口を覆っていたかさぶたが剥がれ、そこから出血することもなかったはずだ。
「いまの君なら乗り越えられると思ったからだよ」
袴田先生は薄い唇の両端を上げた。私は「乗り越えられる?」と聞き返す。
「長年、カウンセリングしてきて気づいていた。君のトラウマは完全に消え去ったわけじゃない。ただ、それを心の奥底にある抽斗に閉じ込める方法を身につけただけだってね。なにかのきっかけがあれば抽斗が開き、再び君はPTSDによる発作に苦しむはずだと」
「……イレス患者を診察することが、そのきっかけになった」
「その通りだ。あの病気の症状は、君を苦しめる原風景に極めて似ている。責任を感じていたんだよ。トラウマを抽斗の中に隠す手伝いをしたのは私だからね。私の能力では、残念ながらそれしかできなかった。申し訳ない」
 袴田先生が頭を下げる。私は慌てて胸の前で両手を振った。
「そんな。先生には感謝しています。私は先生のおかげで立ち直れたんですから」
 もし袴田先生がいなければ私は、完全に壊れてしまっていただろう。そう確信していた。
 十年ほど前、医大に合格し、実家を出たことで私は壊れはじめた。家族と離れての慣れない都心での生活、医学部のきつい勉強、それらのストレスを契機にPTSDが一気に悪化した。
 頻繁に『あの時』のフラッシュバックが起こるようになり、PTSDによるパニック障害と診断された。過呼吸で何度も救急受診をくり返した。発作が起きるのが怖くて外出を避けるようになり、授業も休みがちになった。精神科外来を受診し、安定薬や軽い抗うつ薬などを処方されたが、効果はほとんどなかった。私を担当していた精神科の主治医は、大学生活に対する適応障害が根本の原因なので、一度休学して実家に戻ることを勧めてきた。
 医師になるという夢のため、必死に勉強して入った医学部をやめなくてはいけないかもしれないという不安。それがさらに症状を悪化させ、私の精神は、私の世界はじわじわと腐っていった。そんなときに出逢ったのが、その頃、私が通っていた医大の附属病院で、精神科の准教授をしていた袴田先生だった。
 PTSDの専門家だった袴田先生は、私の噂を聞いて自ら主治医をかって出てくれたらしい。
 准教授の外来ということで、緊張しながら初めて診察室に入ったとき、「はじめまして、識名愛衣君だね」と微笑んでくれた袴田先生の姿は、昨日のことのように思い出すことができる。
 袴田先生はカウンセリングを中心に、じっくりと時間をかけて治療を行ってくれた。彼は私に心の奥に潜んでいる慎重に怪物と向き合わせ、それを飼いならす術を教え込んでくれた。
 袴田先生のカウンセリングを受けるうちに、次第に症状は改善していき、大学一年が終わるころには内服薬を飲まなくても、問題なく学生生活を送れるようになっていた。
 その後も私は定期的に袴田先生のカウンセリングを受け、それは彼が大学附属病院を退職して、院長として神研病院に赴任しても続いた。そして四年前、医師国家試験に合格した私は、研修医としてこの神研病院へやってきた。神経疾患の治療に関して日本最高の病院で学びたい。そんな表向きの志望動機の裏に、医師として袴田先生と一緒に働きたいという想いがあったことは間違いない。あれから四年、私は望んだとおりに、この病院で神経内科医として勤務している。
 ふと、袴田先生と目が合い、私は反射的に視線を落とす。
――恋愛対象にするときは注意しなよ。
ついさっき、華先輩にかけられたセリフが耳に蘇る。
そういうんじゃない。私は一人の医師として袴田先生のことを尊敬しているだけで……。心の中でくり返すが、なぜかじわじわと体温が上がっていく。 
「たしかに立ち直れた。そして君は、一人前の医師になった。だからこそ僕は、いい機会だと思ったんだよ。本当の意味で、トラウマを克服するための」
 袴田先生の声で我に返った私は、顔を上げる。
「克服……ですか?」
「そうだ。この十年間で、君はとても強くなった。もうトラウマと真正面から対峙し、それを呑み込むことができるはずだ。そして、イレス患者を担当することは、そのきっかけになると思う」
 私は背筋を伸ばして袴田先生の説明に耳を傾ける。
「それは痛みを伴うものだ。けれど、耐えて乗り越えたとき、本当の意味で解放されるはずだ。ずっと君を縛っていた、過去の鎖からね。だから全力で、彼らの治療に当たりなさい」
 あのおぞましい経験から、本当の意味で解放される。両腕に鳥肌が立ち、背筋に震えが走った。
「さて」一転して明るい声で袴田先生は言う。「それで、私になにが聞きたいのかな? 神経疾患は専門じゃないが、精神科医としてならなんでもこたえるよ」
「はい、実は……」
 私はごくりと喉を鳴らして唾を呑み込むと、ゆっくりと口を開いた。


「……というわけなんです」
 私が説明を終えると、袴田先生は「なるほど」と険しい表情で頷いた。
「イレスの原因に精神的な要因が関係しているかもしれない、か。斬新なアイデアだね」
「論文を読み込んでみると、イレス患者の既往に、うつ病が含まれていることが多いんです」
 私が付け足すと、袴田先生はあごを撫でた。
「イレスの患者は、レム睡眠状態のまま昏睡が続くという明らかに身体的な異常が起きている。それが精神的な影響で引き起こされるということは、常識的には考えにくいんじゃないかな」
「でも、これまで常識的なアプローチでは、イレスの原因は特定できませんでした。だから……」
「だから、根本的な発想の転換が必要ということか」
 腕を組んでうつむいた袴田先生は、数十秒黙り込んだあと、ぼそりとつぶやいた。
「……感応精神病」
「え? なんですか?」
「感応精神病。精神疾患を抱えた患者が周囲の人間に影響を及ぼし、その人たちにも精神疾患の症状が出るものだ。よくあるのが、精神疾患により妄想に囚われた患者の家族などが、その妄想に取り込まれて、自らも精神疾患を発症したとしか思えない行動を取るケースだね」
「それと、イレスが似ていると?」私は軽く首を傾ける。
「そうだよ。極めて稀な疾患の患者が、同時に四人もうちの病院に入院したんだろ。もしかしたら、一人の患者が他の患者に影響を与えたのかも」
「けれど、患者同士は完全な他人なんですよ」
「あくまで患者の家族の話を聞いた限りでは、だろ。家族も知らない所で、四人に何らかの接点があったとしても不思議じゃない。いや、四人もの患者が同じ日にこれほど珍しい疾患を発症したんだ。そう考える方が自然だ」
「でも、四人とも発症した場所は全然違って……」
 首をすくめながら指摘すると、袴田先生は人差し指を立てて額に当てる。
「たしか、全員自宅で発見されたんだったね。朝になっても起きてこないことに気づいた家族や、出勤してこないことを不審に思った同僚に」
 私は「はい、そうです」と頷く。
「識名君、こうは考えられないかな? 患者たちは昏睡で発見される前日、全員がある場所でイレスの原因となる出来事に遭遇した。しかし、彼らはその場で昏睡に陥ることなく、それどころか自分たちの身になにかが起きていることにさえ気づかずに帰宅して、そして眠りについた。そして、レム睡眠に入ったところでようやくイレスが発症し、そのまま昏睡状態に陥った」
「つまり……」私は袴田先生の説明を頭の中で咀嚼する。「イレスは『原因』となるきっかけを受けてもすぐに発症するわけじゃなく、睡眠に入ってはじめて症状がでるということですか?」
「あくまで仮説だけれど、そう考えるのが合理的な気がするね」袴田先生は大きく頷いた。
「その原因が、感応精神病みたいに精神的なものである可能性もあると?」
「それは分からないよ。ただ、どれだけ患者たちを検査しても、薬物などが検出されないことを見ると、その可能性は否定できない」
「そうだとしたら、どうやって証明を……?」私は口元に手を当てて思考を巡らせる。
「一番簡単なのは、昏睡状態で発見される前日までの患者の行動を調べることだろうが、さすがにそれは医師の領域を超えているな。警察、または探偵の仕事だ」
 袴田先生は軽く肩をすくめた。病院から出て患者の行動を洗う。たしかにそれは医師の仕事ではない。けれど、イレスを治すためなら……。
「識名君、あまり先走らないようにな」
 私の思考を読んだかのように、袴田先生が釘を刺してくる。
「トラウマと向き合っていることで、君はいま冷静さを失っている。視野狭窄を起こさないためにも、リラックスするべきだよ。これは、君の主治医としてのアドバイスだ」
「リラックスと言われましても……」
 一刻も早く、イレスの治療法を知るための、自らのトラウマを乗り越えるための手がかりが欲しい。その渇望が私を駆り立てていた。
「実家に顔を出すっていうのはどうかな?」
「え、実家にですか?」予想外の言葉に声が高くなる。
「無理をすれば帰ることはできるんじゃないかい? 君にとって、ご家族はどんな薬よりも精神を安定させてくれるはずだよ。最近、会っていないんだろ?」
「はい、たしかに……」
 最後に実家に行ったのはいつだろう。すぐには思い出せないほど期間が空いていた。
 唐突に郷愁の情が体の奥底から湧き上がってくる。なぜか胸を締めつけるような痛みとともに。無性に家族に会いたくなってきた。
「……それじゃあ、父に連絡を取ってみます」
 私が答えると、袴田先生は満足そうに微笑んだ。それだけで、胸の奥が温かくなる。
「それがいい。一息つくことで視野が広くなって、見逃していたヒントに気づくかもしれない」
「お忙しいところ、色々とアドバイス、本当にありがとうございます」
 私が深々と一礼すると、袴田先生はニヒルに唇の端を上げた。
「いやいや、楽しかったよ。こんな体になってからというもの、副院長が書類仕事ばかり押し付けてきて、あんまり医師としての仕事ができていないんだよ。大学からも当分休むように言われているしね」
 神研病院の院長になったあとも、袴田先生は週に一日、狛江市にある出身医大の附属病院での勤務を続けていた。しかし、事故後はそれも中止しているらしい。
「私の体を気遣ってくれているのは、ありがたいんだが、さすがに書類仕事ばかりじゃ退屈でね。こうやって新聞を読んだりして気分転換をしていたところだったんだ」
 ふと、袴田先生の膝の上に置かれた新聞に視線を落とす。そこには『男性の遺体発見 連続殺人か?』という煽情的な見出しが躍っていた。思わず「それって……」とつぶやいてしまう。
「ああ、これか。君も知っているだろ、最近頻発している殺人事件だよ。手口からして、同一犯による連続殺人で間違いないだろうね」
 袴田先生は新聞を手に取る。
「深夜、人通りがない場所で襲われ、惨殺される。被害者は老若男女さまざまで、遺体は原形をとどめないほどに蹂躙されている」
「原形をとどめない……」
 言葉を失ってしまう。イレス患者の治療にかかりきりで、事件の詳細までは知らなかった。
「すさまじい暴力だ。人間業じゃない。まるで野生の獣だよ。しかも、そこまでの事件をいくつも起こしながら、目撃者が誰もいない。煙のように忽然と現場から消えている。あまりにも異常な犯行に、犯人は動物園から逃げ出した猛獣じゃないかなんて噂されているほどだ」
「先生も、人間の犯行じゃないと?」
「いや、これは間違いなく人間の犯行だ」袴田先生はゆっくりと口角を上げる。「この事件に興味があって詳しく調べてみたんだ。メディアでは遺体が『原形をとどめていないほど破壊されている』とだけ報道しているが、私は一つだけ気になることがあった。なんだと思う?」
 生徒に質問する教師のような口調。医学生時代、精神科の授業で袴田先生の講義を受けたときのことを思い出す。たしかあの授業のテーマは、『精神疾患と犯罪について』だった。
 精神科医として多くの犯罪者の精神鑑定を行ってきた袴田先生の授業は、生々しく、グロテスクであったが、誰もが前のめりになるほど引き込まれる妖しい魅力があった。
 どこまでも深い闇の底で蠢く、異形の蟲を覗き込むような、背筋がざわつく危険な魅力。
「えっと、躊躇したあとがあるか……とかですか?」
「いや、ちがうよ……」袴田先生はあごを引く。「遺体が喰われていたかどうかだ」
「喰われて……」喉元がこわばり、声が震えた。
「そうだ。野生動物が相手を殺すのは、身を守るため、もしくは喰うためだ。前者なら相手を殺した時点で目的を果たしているので、それ以上の攻撃は加えない。後者なら、仕留めた獲物を貪り喰うから遺体は大きく損傷することになる。野生動物に襲われて、『遺体が原形をとどめていない』という場合は、このケースだ。だから私は、ツテを使って遺体の状況について情報を集めた。主に、遺体の司法解剖の結果についてね」
「遺体は……喰われていたんですか」
「いや、喰われてはいなかったよ」袴田先生は緩慢に首を振る。「遺体はただ破壊されていたんだ。破壊のための破壊。遺体を蹂躙することこそが目的だった。そんなことをする生物は、私の知る限りこの地球上にたった一種しかいない。……人間だよ」
 私は立ち尽くして、袴田先生の話に耳を傾け続ける。
「この犯行が示すのは『怒り』だ。燃え上がる激しい怒り。世界を焼き尽くすほどの怒り」
 言葉を切った袴田先生は、あごを引いたまま唇を舐めた。
「しかも、それほどの『怒り』を内包しているにもかかわらず、この犯人は破綻していない。遺留品を残さず、姿を見せることなく犯行を重ねている。……たしかにこの犯人は、人間ではないのかもしれないな」
「え、どういうことですか? さっき犯人は人間だって」
「自らを焼き尽くしそうなほどの『怒り』と、全く姿を見せない『冷静さ』。そんな矛盾したものを呑み込んでいる存在は、『人間』という範疇を逸脱しているということだ。それはもはや、『怪物』まで進化していると言っても過言ではない」
「怪物……」
「専門家として、ぜひ『怪物』に会って、その本質に触れてみたいものだねぇ」
 袴田先生は、捕まえた昆虫を見る幼児のような、残酷な、それでいて無邪気な笑みを浮かべた。


      4
 数種類の香辛料が織りなすスパイシーな香りが鼻先をかすめる。スプーンですくったカレーを口に含むと、深い旨味と刺激的な辛みが口腔内に広がった。
「うまいか?」
 ダイニングテーブルを挟んで対面に座る父さんが訊ねてくる。私は咀嚼をしたまま、数回首を縦に振った。父さんの目尻にしわが寄る。袴田先生の忠告どおり私は実家に帰っていた。院長室を出てすぐに電話をすると、父さんは「待っているよ」と心から嬉しそうに言ってくれた。
 勤務終了後、私は実家の最寄りにあるJRのターミナル駅まで向かうと、路面電車に乗って野球場や観光名所である大きな公園を眺めつつ十五分ほど揺られて、父さんの待つこの家までやってきていた。
 子供の頃からの好物である、父さんの手作りカレー。実家を出てからというもの、帰ってくるたびに父さんはこのカレーを作ってくれる。
 こうして父さんと向かい合って食事をするのって、どのくらいぶりだろう? 
 せわしなくカレーと口との間でスプーンを往復させながら、私は父さんを観察する。
 頭髪は薄くなり、顔にはシミとしわが目立ってきた気がする。幼かった私を必死に育て上げてくれた父さん。その苦労が、その外見から滲み出していた。
 なのに私はろくに顔を出しもしないで……。感謝と罪悪感が胸の中でブレンドされる。
 自己嫌悪に苛まれていると、唐突にニャーと鳴き声が響き、膝の上に薄いクリーム色の毛玉が飛び乗ってくる。『きなこ』という名の飼い猫だ。私が幼稚園生のころ、近所の公園で拾ってきた子猫は、いまはこの家の主のように傍若無人に過ごしている。
「ご飯食べているんだから邪魔しないで。ほら、ハネ太は大人しくしているじゃない」
 私は名前の由来となったきな粉のような色の柔らかい毛を一撫ですると、リビングの隅に置かれた大きなケージを指さす。その中には、こちらも私が子供の頃からの付き合いである白ウサギのハネ太が目を閉じて座っていた。一見すると眠っているようだが、地面に触れそうなほどに垂れ下がった耳が時々ぴくぴくと動いているのを見ると、こちらの様子をうかがっているようだ。
 きなこは私の膝を踏み台に前足をテーブルに乗せ、フンフンとカレーの匂いを嗅ぎはじめた。
「猫はカレーなんか食べれないよ」
 抱えて床に下ろすと、きなこは抗議するかのように「ナー」と一声鳴いた。態度こそ大きいが、体格は小柄で、いまだに子猫のときの愛嬌を存分に残している。
「あとでおやつに猫用スナックあげるから、ちょっと待ってて」
 きなこに交渉を持ちかけつつ、私は口と皿の間でスプーンを往復させ続けた。
 食事を終えると、父さんが淹れてくれた紅茶を飲む。ああ、やっぱり実家に帰ってきてよかった。私は内心で、帰郷を勧めてくれた袴田先生に感謝する。こうして父さんと向かいあってお茶を飲んでいるだけでも、この数週間ずっと張りつめていた気持ちが緩んでくる。
 いくら仕事が忙しいとはいえ、もっと頻繁に父さんに会うべきだった。なんで私は、ずっと実家に帰っていなかったのだろう。
「それで、なにがあったんだ?」唐突に父さんが話しかけてきた。 
「え? なんの話?」私は手にしていたカップをソーサーに戻す。
「なにかあったから、急に帰ってきたりしたんだろ?」
 父さんが細めた目で、瞳を覗き込んでくる。子供の頃から私がふさぎ込んでいると、父さんはきまってこうして話を聞いてくれた。
「ちょっと……、仕事が忙しくて」
 曖昧に答える。父さんは小さく肩をすくめた。
「それだけじゃないだろ。愛衣は頑張り屋だから、忙しいだけでそんな弱気になったりしないさ。なにかつらいことでもあったんだろ? 話ぐらいなら聞くぞ」
 やっぱり父さんにはかなわないな……。私は苦笑しつつ、どう話すべきか考える。
 担当患者たちの姿を見て、『あの時』のことを思い出すということは、口にするわけにはいかない。父さんは私以上に『あの事件』で心身ともに傷つき、苦しんだのだから。
「実はちょっと難しい患者さんを担当していて。イレスっていう病気の患者さんなんだけど……」
 躊躇いがちに話しはじめる。相手が家族とはいえ、患者の個人情報を漏らすわけにはいかない。けれど、疾患についての一般的な説明ぐらいなら問題ないだろう。
 私はイレスについて、医療知識のない父さんも理解できるよう、噛み砕いて説明をはじめた。


「そうか、世の中には不思議な病気があるもんだな」
 何度も相槌を打ちながら私の話を聞き終えた父さんは、眉間にしわを寄せる。
「凄く珍しい病気だからさ、手探りで治療しているんだけど、全然効果がないんだよね。なんか、それで無力感をおぼえているというか……」
 無力感をおぼえ、『あの時』の自分を思い出してしまう。私は膝の上で拳を握りしめた。
「しかし、夢を見たまま眠り続けるって、あれだな。なんか、そういう童話がなかったか」
「白雪姫でしょ。毒リンゴを食べて眠り続けて、王子様のキスで目覚めるってやつ。だから、イレスを『白雪姫症候群』って呼ぶ人もいる。私はそんなロマンチックな名前、嫌いだけど」
 カップの残っていた紅茶を口に放り込む。濃い部分が底に沈んでいたのか、やけに苦かった。
「どうして嫌いなんだ? 女の子はロマンチックなものが好きだろ」
「やめてよ。もう『女の子』って歳じゃないって」
 かぶりを振る私の前で、父さんは無言ではにかむ。父親にとって娘は、いくつになっても『女の子』らしい。
「キスで起きるような病気だったら、ロマンチックな名前が付いていてもいいよ。けど、イレスの患者さんは、かなりの割合で二度と目覚めないの。まさに呪いみたいにね。王子様のキスでも、おまじないでもいいから、患者さんたちを目覚めさせる方法があったら教えて欲しいよ」
 私が大きなため息をつくと、父さんは無精ひげの生えたあごに手を当てて考え込んだ。
「おまじない……か」
「どうしたの? 難しい顔して」
「いや、そういうことなら、母さんに相談したらいいんじゃないかなと思って」
「え、ママに!?」顔の筋肉が急速にこわばっていく。
「ああ、違う違う。俺の母さん、愛衣のばあちゃんのことだよ」
 私の顔色に気づいた父さんは慌てて言った。
「ああ……、そういうことか。でも、おばあちゃんって……」
 なぜか軽い頭痛をおぼえた私がこめかみに手を当てると、父さんは天井を指さした。
「まだこの時間なら、自分の部屋で起きていると思うから、話を聞いてみたらどうだ」
「ちょっと待って。なんでおばあちゃんに話を聞くの? 病気の話なんだよ」
「けれどその患者さんたちの症状って、素人の俺が聞くと病気というより、それこそ呪いみたいなものに聞こえるんだよ。なら、専門家に相談するのが一番だ。なんと言ってもばあちゃんは、若いころユタをやっていたからな」
「ユタ? それって、沖縄の巫女さんみたいな人だっけ?」
「俺もあまり詳しくないけど、どちらかと言うと霊能力者に近いかな。不思議な力で悪霊を払ったり、病気を治したりするんだよ」
「霊能力者……」鼻の付け根にしわが寄る。
「まあ、胡散臭いのは確かだな」父さんは楽しげに笑った。「実際、相手の弱みに付け込んで詐欺みたいなことをしている自称ユタもたくさんいるらしい。ただ、近所の話とか聞くと、ばあちゃんは凄く優秀なユタだったらしいぞ」
「不思議な力って、そんなものあるわけないじゃない」
 口調に苛立ちが滲んでしまう。病に苦しむ人々に、言葉巧みになんの根拠もない高額の治療法を勧める者はたくさんいる。そのような治療法を信じてしまった結果、不幸になっていった患者を、医師になってから何人も見ていた。
「いやいや、ばあちゃんに不思議な力があるのは間違いないぞ。俺は子供のころから色々と見てきたからな。ちょっとした病気を治したり、探し物の場所を言い当てたりとかな」
「……私、そんな話はじめて聞いたんだけど」
「ばあちゃんは自分がユタだっていうことをあまり知られたくなかったみたいだからな。近所の人に頼まれたときだけ、無料で助けてあげたりしていたんだよ。さっき言ったように、詐欺師まがいのユタも多いせいで、ユタっていうだけで白い目で見てくる人も少なくなかったからな」
「ふーん、そうなんだ」料金を要求しなかったということを聞いて、抵抗感がいくらか薄くなる。
「まあ、参考になるか分からないけれど、話を聞いて損はないんじゃないか? 昔から受け継がれてきた知恵ってやつは、けっこう役に立ったりするもんだぞ」
 父さんに促されると、そんなものかもなと思ってしまう。超常的な能力など全く信じていないが、久しぶりに会うのだから、おばあちゃんとゆっくり話をするのも悪くない。
二十五年ほど前、おじいちゃんが亡くなったのを機に、おばあちゃんは沖縄からこっちにやってきて、私たちと同居をはじめていた。
 私は「それじゃあ、ちょっとお話ししてこようかな」と席を立つ。父さんは嬉しそうに「いってらっしゃい」と手を振った。ダイニングを出て、二階へと続く急な階段を上がっていくと、きなこが足元をすり抜けて行った。
「お前もおばあちゃんの部屋に行くの?」
 一足先に二階に到着したきなこは、私を急かすように「ンニャー」と声を上げた。まだおやつを貰っていないのが不満なのかもしれない。二階へ上がると、短い廊下の右手にある襖を、きなこが爪で掻いていた。おばあちゃんの部屋だ。襖の前まで来た私は、「おばあちゃん、起きてる?」と小声で訊ねてみる。すぐに「起きてるよー」と、返事があった。
 襖を開けると、琉球畳が敷かれた和室が広がっていた。ちゃぶ台の奥にゆったりとした浴衣を着たおばあちゃんが、ちょこんと座っている。部屋の隅で焚いている蚊取り線香から漂ってくる独特の匂いがなんだか懐かしかった。
「愛衣ちゃん、久しぶりだねえ。しばらく見ないうちに、大きくなったさぁー。ほら、どうぞ」
 おばあちゃんは元々しわの多い顔に、さらにしわを寄せると、座布団を勧めてくる。部屋に入ったきなこは、大きくジャンプしておばあちゃんの膝の上で丸くなった。
「やだ、子供じゃないんだから、もう大きくなったりしないよ」
 ちゃぶ台をはさんで、おばあちゃんの向かいに正座しながら苦笑する。
「会えて嬉しいよ。ほら、ムーチーでも食べなさい」
 おばあちゃんはちゃぶ台の上に置かれた菓子器の中から、折りたたまれた大きな月桃の葉を取り出す。ムーチー、または鬼餅と呼ばれる沖縄の菓子だ。
「あっ、これ懐かしい」
 受け取った私は、月桃の葉を開く。中から現れた紅芋が練り込まれた濃い紫色の餅を、前歯で葉からこそぎ落とすようにして食べる。奥歯で噛みつぶすと、一般的な餅よりも遥かに粘着質で柔らかい食感とともに、紅芋の優しい甘みと、月桃の葉の爽やかな香りが口の中に広がった。
 子供のころ、よくおばあちゃんからもらって食べていた味。そのなつかしさに、熱いもの胸にがこみ上げてくる。やっぱり家族に会うのはいい。ざらついていた心が温かく癒されていく。私は幸せを噛みしめるように、ムーチーを食べ続けた。
「マブイが落ちたのさぁ」
 食べ終わり、指先のべとつきを舐めて落としていると、唐突におばあちゃんが声を上げた。意味が分からず、私は「え? なに?」と聞き返す。沖縄の訛りが強いおばあちゃんの言葉は、時々聞き取れないことがある。
「だから、愛衣ちゃんが診ている患者さんのことさぁ。急に起きなくなったんだろ?」
「……なんでそれを?」
 背中にぞわりとする。さっき父さんが口にした「不思議な力」という言葉が耳に蘇った。
「愛衣ちゃんのことならね、私はなんでも分かるさぁ」
 得意げに目尻を下げるおばあちゃんを見ながら、私は軽く頭を振る。
 きっと父さんと私の会話が聞こえていただけだ。この家は、それほど防音性に優れてはいない。年齢の割には耳が遠くないおばあちゃんなら、この部屋でも聞き取れたかもしれない。
 なかば強引に自分を納得させた私は、おばあちゃんに「マブイってなあに?」と訊ねた。沖縄の方言のようだが、東京で育った私には聞き覚えのない言葉だった。
「マブイっていうのはねぇ、内地の言葉でいうと『精神』とか『魂』みたいなものさぁ」
「魂……」スピリチュアルな単語に、頬の筋肉が引きつる。
「マブイはね、ちょっとしたことで落ちちゃうんだよ。すごく驚いたり、悲しいことがあったりしたときさぁ。そういうとき、なにも考えられなくなっちゃうでしょお」
 ショックで茫然自失になることを言っているようだ。
「おばあちゃん、私が診ている患者さんたちはね、一ヶ月以上も眠り続けているの。そんなすぐに治るようなものとは違うんだよ」
「それはねぇ、マブイを誰かに吸い込まれちゃったからさぁ」
「吸い込まれた?」意味が分からず、反射的に聞き返す。
「そうよ。愛衣ちゃんが診ている人たちはマブイを起きなくなる前、みんな元気がなかったんじゃないの? 凄くつらいことがあって、落ち込んでいたんじゃないの?」
「なんでそれを!?」甲高い声を出した私は、慌てて両手を口に当てる。
 これもさっきの話を聞かれていたからだ。そうに違いない。
「つらいことがあるとねえ、マブイが弱くなるの。弱ったマブイは吸い込まれやすくなる。マブイを吸い込まれて落としたままの人は、家に帰ったりご飯を食べたりはできるけど、一度眠ったらずっと起きられなくなるのさぁ」
「吸い込まれるって、なにに?」
 イレスとまったく同じ症状。私は思わず身を乗り出していた。
「サーダカンマリな人よぉ」
「さーだかんまり……?」
「そういう力がある人のことさぁ」
 他人の魂を抜く力がある人間? 頭痛がしてくる。心臓の鼓動に合わせて痛みが走るこめかみを押さえながら、私は質問を続けた。
「それじゃあ、その魂……マブイっていうのが吸い取られた人は、どうすれば起きるの?」
 なにを馬鹿なことを訊いているのだろう? 医者である私が、こんな迷信じみたことを真に受けるなんて……。理性ではそう思うのだが、なぜかおばあちゃんの話に魅せられていた。
「マブイグミをするのさぁ」おばあちゃんは高らかに言う。
「まぶい……ぐみ……?」
「そうよぉ。マブイを戻してあげるの。ちょっとマブイを落としただけなら、普通の人でもできるけどねぇ。吸い取られた人はそうはいかないさぁ。ちゃんとした人がやらないと」
「ちゃんとした人って、もしかして……ユタっていうこと?」
 おばあちゃんはにこにこと微笑むだけだった。
「……おばあちゃんなら、マブイっていうのが吸い取られた人、私の患者さんを治せるの?」
 そんなことあるわけないと分かっているはずなのに、質問を止めることができない。
「いやあ、無理だねぇ」おばあちゃんは残念そうに首を横に振る。「三十年前ならできただろうけどねぇ。ただ、できる人ならいるよぉ」
「できる人? 誰!?」
 座布団から腰を浮かしかけた私の鼻先に、おばあちゃんは人差し指をつきつけた。
「愛衣ちゃん、あんたさぁ」
「……私?」半開きの唇から、呆けた声が漏れる。
「そうよぉ。愛衣ちゃんは私の孫だからねぇ、きっとできるよぉ」
 体の熱が一気に引いていく。ユタであるおばあちゃんの血を引いているから、私に特別な力があるとでもいうのだろうか。そんな都合のいいことがあるわけがない。
 これ以上、この話題を続けてもしかたがない。おばあちゃんに顔を見せられたし、そろそろ引き上げよう。そう思って腰を上げかけると、不意におばあちゃんが額に掌を当ててきた。
「え? なに?」
 反射的に身を引こうとすると、おばあちゃんは「動かないで」と優しく微笑んだ。
 いったいなにを? 不安に駆られながら固まっていると、額の中心がふわりと温かくなる。
 その部分に光が灯った気がした。淡いオレンジ色の光が。
 目で見えるわけではない。なのに、その光の色彩まで、なぜか感じ取ることができた。
「なに? なんなのこれ!?」
 私が腰を浮かすと、おばあちゃんは「大丈夫さぁ」と柔らかく言った。
 額の熱が広がっていく。顔、首、体幹、そして四肢の先へと。全身の細胞が熱を帯びる。しかし発熱しているようなつらさはなく、南国の海の中に漂っているかのように心地よかった。
 私は瞼を落とす。漆黒の世界の中、私の体はオレンジ色の光に包まれて浮いていた。いや、それは正確じゃない。私自身がそのオレンジの光を放っているのだ。
 六十兆ある全身の細胞が、淡く発光しているのを感じる。
「これって……」
 私が目を開くと、おばあちゃんは得意げに目を細めた。
「ね、愛衣ちゃんはやっぱり私の孫さぁ」
 体の熱がゆっくりと引いていく。感じていた光も弱くなっている。しかし、その残滓が、臍の奥あたりに燻っている気がした。
「どういうこと? いまなにをしたの?」
「マブヤー、マブヤー、ウーティキミソーリ」
 突然おばあちゃんは呪文のような言葉をつぶやいた。
「なに……言ってるの?」
「マブイが落ちている人の頭に触って、いまの呪文を唱えるんだよ。そうしたら、マブイをその人の体に戻すことができるよ」
「イレスを治せるっていうこと?」
 おずおずと訊ねると、おばあちゃんは我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「そう……、ありがと」
 礼を言った私は、逃げるように襖に向かう。これ以上、おかしな迷信に惑わされるのはまっぴらだった。おばあちゃんの膝で丸まっていたきなこも、起き上がってついてくる。
「ああ、愛衣ちゃん」
 襖を開くと、背中から声を掛けられた。私は「なに?」と首だけ振り返る。
「マブイグミをするときはね、ククルを探すんだよ」
「ククル? なにそれ?」
 新しく出てきた単語に、眉根が寄ってしまう。
「すぐに分かるさぁ」
 おばあちゃんは少女のように悪戯っぽい笑みを浮かべた。


      5
「あっ、愛衣センセ」
 実家に帰った翌日の夕方、午後の回診中に病棟の廊下を歩いていると、明るい声がかけられる。振り返ると、入院着を着た小学校低学年ぐらいの少女が屈託のない笑みを浮かべて立っていた。たしか……、この病棟に入院している子だ。何度か顔を合わせたことがあった気がする。
「こんにちは。えっと……」
「宇琉子だよ。久内宇琉子」
 不満げに頬を膨らませる姿も可愛らしい。
「ごめんね、宇琉子ちゃん。えっと、こんなところでなにをしているのかな?」
 彼女は笑みを湛えながら近づいてくる。老婆のように背中を曲げて小刻みに足を進めるその姿から、彼女が神経の難病に冒されていることが見て取れ、表情が歪みそうになってしまう。
「お散歩。お部屋にいても暇だから、ぶらぶらしていたの。お姉ちゃんもお散歩していたの?」
「私はお仕事中。担当している患者さんのところに行って、お話を聞いて回っていたのよ」
 私は膝を曲げて、宇琉子ちゃんと視線を合わせた。
「宇琉子ちゃんも、自分の病室に戻っていた方がいいよ」
「でも、お部屋にいてもなにもやることないんだもん。つまんないよ」
 宇琉子ちゃんは哀しそうにうなだれる。背骨が前曲しているので、その姿は痛々しかった。
「それじゃあ、お仕事が終わったらちょっとお姉ちゃんが遊んであげる。だから、それまでは自分のお部屋で待っていてくれる?」
「ホント!? 分かった、待ってる」
 花が咲くように笑みを浮かべると、宇琉子ちゃんは踵を返して離れていった。やはりぎこちない足取りながらも、スピードはかなり速い。疾患を抱える自らの体に適応しているのだろう。
 小さい背中が見えなくなるのを確認すると、私は引き戸を開いて病室へと入っていった。
 片桐飛鳥さんの病室。部屋の奥に置かれたベッドには、彼女が横たわっていた。一定のリズムで響く、かすかな寝息が鼓膜をくすぐる。ベッドに近づいた私は首にかけていた聴診器を手に取り、「回診ですよ。ちょっと失礼しますね」と声をかけてから診察をはじめた。
 すぐに診察は終わる。特に異常は見られない。これまでの四十日間と同じように、彼女はただ眠り続けているだけだった。
 もうこの病室には用はないはずだ。早くナースステーションに戻って、カルテの記載や処方・検査のオーダーなど、山積みになっている業務をこなさなくてはならない。にもかかわらず、私はベッドのそばから動くことができなかった。
 いったいなにをするつもり? 私は自問しつつそっと手を伸ばし、彼女の右の瞼に触れる。
 薄皮の下で素早く動いている眼球の動きが指先に伝わってきた。
 触れている瞼から目尻、そしてこめかみにかけて、細い古傷が走っている。私はカルテに記されていた情報を思い出す。なにかイレスを治すための手がかりがないかと、親族をはじめとする関係者から必死に話を聞いて、まとめたその情報を。
 二十一歳の飛鳥さんは、飛行機のパイロットを夢見て航空学校に通っていた。しかし、数ヶ月前に事故に巻き込まれ、重傷を負った。命に別状はなく、四肢を骨折したものの、それも手術によって後遺症なく治癒することができた。
 しかし、問題は目だった。事故の際、飛び散った破片が右目をかすめ、角膜をひどく傷つけて、ほぼ失明状態になった。片目の光を失えば、視覚で物体の遠近を判別することが困難になる。それはパイロットを目指す者にとっては致命的な障害だった。
 夢を失い絶望した彼女は、体の怪我が癒えても学校に復帰することなく、抜け殻のようにただ漫然と毎日を送るようになった。そしてある日の朝、突然目覚めなくなった。
 まるで、つらい現実を拒絶し、夢の中に引きこもってしまったかのように。
 いま彼女はどんな夢を見ているのだろう? 幸せな夢に心をゆだねているのか、それとも悪夢の中を彷徨っているのだろうか。無表情なその寝顔からは、判断することができなかった。
「マブイが落ちた……か」
 マブイ、魂なんてものが本当にあるのか分からない。人格なんて、蜘蛛の巣のように複雑に絡み合った脳神経回路に生じる電気信号から生み出されるものだと思っている。けれど、たしかに魂が存在し、それが体から消え去ったら、目の前で夢を見続ける彼女のような状態になるのかもしれない。
 マブイグミ。おばあちゃんから聞いたその話を思い出す。たしか、相手の額に手を置いて呪文を唱えるんだっけ?
――愛衣ちゃんは私の孫だからねぇ、きっとできるよぉ。
 おばあちゃんの言葉が耳に蘇ってくる。私は飛鳥さんの瞼に当てていた手をゆっくりと、その額へと移動させる。彼女の体温で、掌がほんのりと温かくなった。
 本気でやるつもり? 医師の私があんな非科学的な迷信を真に受けて?
「おまじないくらいしてもいいよね。願掛けみたいなものだし」
 言い訳するようにつぶやくと、私は飛鳥さんの顔を見つめつつ、ゆっくりと唇を開いた。
「……マブヤー、マブヤー、ウーティキミソーリ」
 誰かに聞かれないように、蚊の鳴くような声で放った呪文が、病室の空気をかすかに揺らした。
 なにも起こらなかった。王子に口づけをされた白雪姫のように、彼女が目覚めるようなことはもちろんなかった。彼女はいまも、かすかな寝息を立てている。
そりゃそうだよね。そうつぶやいて手を引こうとする。けれど……できなかった。
 独り言を発することも、手を引くことも私にはできなかった。まるで、脳と身体を繋ぐ回線が切断されたかのように。
 なんなの、これ!? 反射的に叫ぼうとするが、喉も舌も言葉を発せない。
 そのとき、光が灯った。昨日、おばあちゃんに頭を触られたときと同じように、全身が淡いオレンジに発光しはじめた。いや、光っているのは身体じゃない。その中に収められた『私』だ。身体に収めきれない光が、その外まで漏れ出しているんだ。
 ずっと身体こそが『自分』だと思っていた。皮膚を境に、その内側が『自分』で外側が『自分以外』であると。けれど、いま私は身体の奥底に本当の『自分』の存在を感じていた。
 全身からあふれ出していた光が、次第に右半身に、そして飛鳥さんに触れている右手へと集中していく。私の掌と、彼女の額。皮膚が触れ合う部分を通して、光が、いや光っている『私』が流れ込み、彼女に吸い込まれていく。身体の中にある『私』が次第に希釈されていく。
 このままでは、『私』は掌に落ちた雪の結晶のように消え去ってしまうのではないか。
 恐怖にかられ、必死に手を引こうとする。しかし、やはり身体は微動だにしなかった。その間も、光は、『私』は飛鳥さんの体へと流れ込み続けている。
 やがて視界が暗くなってきた。目がおかしくなったのではない。視神経から脳へと伝わった視覚情報を受け取る『私』が薄く、消えてしまいそうなほどに薄くなってきたから。
 すぐそばに『死』が佇んでいるのを感じる。二十三年前のあの日以来の、濃厚な『死』の香り。
 包み込むように笑みを浮かべて、手を伸ばしてくる女性の姿が脳裏に弾ける。その瞬間、恐怖が消え去った。私は心穏やかにその香りを受け入れていた。
 次の瞬間、スイッチを切られたテレビ画面のように、私の意識は黒く塗りつぶされた。


      6
 気づくと、私は森の中に立っていた。薄暗い森の中。辺りには樹々が乱立し、巨大な幹が迷路のようにいりくんでいる。
 ここは……? 混乱しつつ空を仰ぐ。遥か遠く、空に触れそうな距離に大量の葉が生い茂っているのが見えた。いまだかつて、これほどまでに大きな樹を見たことはなかった。木製の高層ビル群に迷い込んだかのような心地になる。
 両手を額に当てた私は、乱れている呼吸を必死に整え、状況の把握につとめる。しかし、どれだけ頭を働かせても、なにが起きているのか分からなかった。
 私は病院にいたはずだ。それなのに、いつの間にこんな森に?
 もしかしたら、夢でも見ているのだろうか? いや、夢にしてはあまりにもリアルすぎる。
 大きく息を吸う。むせ返るような葉と土の湿った匂いが、鼻腔を満たしていく。一歩足を踏み出すと、靴の裏から柔らかい地面の感触が這い上がってきた。頬を撫でる空気は湿度こそ高いが、森林特有の清涼感を孕んでいて、爽やかですらあった。
 明晰夢、夢を見ている間、自分が夢の中にいると理解できるというその状況は何度も経験したことがある。しかし、そのときに感じた、世界の、そして『自分』という存在の濃淡が、時間経過とともに変化していく感覚がいまはない。少なくとも、私にとっていまこの世界は『現実』だ。
 じゃあ、病院で回診をしていたことが夢だったのだろうか? 医学部に入り、過酷な初期臨床研修を終えて神経内科医となり、三人のイレス患者の担当になったのも、全部夢だった?
 いや、そんなわけがない! しっかりしろ!
 私は両手で自分の頬を叩く。パーンという小気味いい音が響いた。両頬に走った鋭い痛みが、沸騰しそうなほど混乱している頭をわずかに冷ましてくれる。
 冷静になれ。冷静になるんだ。胸に手を当てて深呼吸をくり返していると、すぐそばに球状の物体が落ちていることに気づいた。私は小さく悲鳴を上げて飛びずさる。
 それは松ぼっくりだった。子供のころ、よく集めては近所の男子と投げて遊んでいた松ぼっくり。しかし、地面に落ちているそれは、スイカほどの大きさがあった。
 常識外れのサイズの松ぼっくり。けれど、私が驚いたのはそのサイズだけではなかった。
「いつの間に……」
 さっきまで、こんなものはなかった。こんな異常な物が落ちていれば絶対に気づいたはずだ。
 ……いや、そうとは限らない。ここに来てから、私は混乱し続けている。そのせいで、近くに落ちていても気づかなかったのかもしれない。そうだ。そうに違いない。
 強引に自分を納得させた私は膝を折ると、松ぼっくりに手を伸ばす。指先が触れる寸前、その松ぼっくりはころりと転がった。まるで、私の手を避けるように。私は体を震わせて手を引く。
 風? けれど、こんな大きなものが動くような風は吹いていないはず……。
 心臓の鼓動が加速していく。背中を冷たい汗が伝った。
『キャハハハハ』
 唐突に笑い声が上がった。幼児が無邪気に発するような甲高い笑い声。しかし、私の耳にはそれが肉食獣の唸り声よりも恐ろしく響いた。
 その声は、明らかに目の前の松ぼっくりから聞こえてきていたから。
「なんなのよ……、これ……」
 舌がこわばって言葉がうまく出ない。その声に反応したかのように、松ぼっくりはくるりとその場で回転すると、先端を私に向けてきた。
 目などないはずなのに、松ぼっくりからの視線を感じる。じわじわと後ずさる私の鼓膜を、また笑い声が揺らした。何重にも重なり、エコーのかかった笑い声が。
 関節が錆びついたかのように動きが悪くなっている首を回し、周囲に視線を送る。いつの間にか、数えきれないほどの巨大な松ぼっくりに取り囲まれていた。
 夢だ……。やっぱり悪夢を見ているに違いない……。上下の歯がカチカチと音を立てはじめた。
 目の前の松ぼっくりが、一際大きな笑い声をあげる。それを合図に、無数の松ぼっくりたちが笑いつつ、ランダムな動きで転がりはじめた。
 お互いに衝突しては跳ね上がり、そのたびに一際大きな笑い声があがる。
 逃げないと。いますぐに、ここから逃げ出さないと。そう思うのだが、震える足に力が入らず、動くことができない。そもそも、四方八方を、奇声を発しながら転げまわる松ぼっくりに取り囲まれているのだ。どこに逃げればいいのかさえ分からない。
 松ぼっくりたちの舞踏会の中心で、私はただ怯えつつ立ち尽くすことしかできなかった。
 そのとき、背筋にざわりとした震えが走った。体を硬直させた私は、緩慢な動作で首を回して右を向く。踊り狂う松ぼっくりたち。その奥に『闇』が佇んでいた。
 それはまさに『闇』としか表現できないものだった。その部分だけ空間が切り取られたかのように、どこまでも黒く底の見えない『闇』がわだかまっていた。
 物も、音も、そして光さえも呑み込むような『闇』。その正体は分からないが、頭の中で警告音が最大音量で鳴り響いていた。全身の汗腺から、氷のように冷たい汗が染み出してくる。
 ころころと踊っていた松ぼっくりの一つが、その『闇』に触れた瞬間、悲鳴じみた笑い声を上げながら吸い込まれる。笑い声が次第に小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。まるで底なしの穴に落下したかのように。
『闇』が膨らんだ。いや、それとも近づいたのだろうか? あたりが薄暗いせいか、距離感がつかめない。踊っていた松ぼっくりが、次々と『闇』に呑み込まれていく。
 私は唇を力いっぱい噛んだ。八重歯が薄皮をわずかに破る。鋭い痛みが、断線していた脳と足を結ぶ神経を繋げると同時に、私は地面を蹴って走りはじめた。足元で踊る松ぼっくりを避け、ときには蹴り飛ばしながら足を動かしていく。
 走ったまま、私は首だけ振り返る。背後に、さっきと同じ大きさの『闇』が見えた。
全然小さくなっていない。追ってきている。恐怖で足が縺れそうになる。
『闇』が巨大な樹の幹に触れた。音もなく、その部分がごっそりと抉り取られる。喉の奥から「ひっ」という悲鳴を漏らしつつ、私が正面に向き直ったとき、目の前に巨樹がそびえ立っていた。慌てて両手を突き出して激突を防いだ私は、軽く頭を振る。
 樹がない方に走っていたのに……。混乱しつつ、私は再び振り向いて『闇』の位置を確認する。そのサイズはさっきより大きくなっていた。しかし、やはり正確な距離が掴めない。
 早く回り込んで逃げないと。再び正面に向き直ると同時に、口から、「え?」と呆けた声が漏れる。目の前にあったはずの樹が消えていた。両手でその幹に触れていたはずなのに、正面には大きく道が開けていた。
 なにが起こったか分からず一瞬硬直するが、すぐに我に返って走りはじめる。息を乱しながらまた振り返ると、今度は『闇』が心なしか小さくなっている気がした。
 逃げ切れる。あの『闇』に呑み込まれずにすむ。わずかに安堵しつつ、正面を見た私は、慌てて足を止める。ずっと開けていたはずの道に、また巨大な樹が立ち塞がっていた。
 私は「なんで……?」と棒立ちになりつつ、辺りを見回す。全身に鳥肌が立った。周囲に生えている樹の配置が明らかに変わっていた。まるで、それらが勝手に動き回ったかのように。
 私は再度走り出そうと正面を向く。また、立ち塞がっていたはずの樹は忽然と消えていた。
「なに……、これ……?」かすれ声を漏らしながら、せわしなく体を回転させる。
 視界の中で樹が動いているということはなかった。しかし、わずかに視線を外すたびに、そこに生えている樹の配置が大きく変化する。
 この感覚は知っていた。『だるまさんが転んだ』だ。子供のときによくやったあの遊戯のように、大樹が私の隙をついて音もなく位置を変えている。視界から遠近感が消えていく。周囲の大樹が、私を押しつぶそうと迫ってきているような錯覚に襲われる。
 いや、これは錯覚なのだろうか? 本当に樹が近づいてきているのではないだろうか?
 立ち尽くす私の鼓膜を、黒板を引っ掻くいたような不快な音が揺らす。
 体を震わせておずおずと後ろを見た私の、焦点が合わない瞳が『闇』をとらえる。それはいつの間にか、見上げるほどに膨れ上がっていた。いまにも私を呑み込もうとしているかのように。
 ダメだ……。絶望が心を黒く染め上げていく。体が動かない。
 肉食獣に追い詰められた小動物のごとく固まっている私の足元を、不意に小さな影がすり抜けていった。足首を羽毛で撫でられたような感触に、金縛りが解ける。私は反射的に首を回して、影を視線で追う。その影は少し離れた位置で止まった。暗くて姿ははっきりしないが、シルエットからすると四つ足の動物のようだ。
「ついてきて!」
 声変わりしていない男児のような、幼い声。それは、明らかに影から聞こえてきていた。
「ついてきてって……」
「いいから早く! それとも、あれに喰われたいの?」
 あれ。近づいてきている『闇』。それとの距離を再度確認しようと、私は首を回しかける。その瞬間、「見ちゃダメ!」と鋭い声が影から飛んだ。
「あれから逃げたければ、走るんだよ。いますぐに全力で走るんだ!」
 声質に似合わない強い口調。思わず、「は、はい!」と返事をしてしまう。
「走れ!」
 その言葉とともに、影が走り出す。反射的に私も地面を蹴った。
 迷路のように立ち並ぶ樹の間をすり抜けていく小さな影を、私はただただ必死に追う。
『闇』を引き離すことはできただろうか?
 後方を確認しようとした瞬間、影が走ったまま、「振り返るな!」と叫ぶ。
「絶対に振り返っちゃだめだ。まっすぐに前だけ、僕だけを見ながら走り続けるんだよ。じゃないと、また樹に衝突して、『あれ』に追いつかれるよ」
「で、でも……、もう限界……」私は荒い息の隙間から声を絞り出す。
 運動不足の体で走り続けたため、全身が悲鳴をあげていた。大腿は熱を持ってパンパンに張り、破裂しそうだ。口の中は砂漠のように乾燥し、必死に酸素を取り込んでいる肺が痛かった。
「それは愛衣が限界だと思い込んでいるからだよ。限界になる体なんてないんだからね」
 影は走ったまま呆れ声でつぶやく。
「どういう……こと……?」
「すぐに分かるよ。それより、そろそろゴールだよ」
「ゴール?」言われて視線を上げると、薄暗い森の奥からかすかに光が差し込んでいた。
「あそこまで行けば大丈夫。だから頑張ってよ。あと、絶対に振り返っちゃだめだよ」
 あそこまで行けば助かる。休むことができる。体の底にわずかに残っていた気力を振り絞り、私は鉛のように硬く重くなっている足に活を入れる。
 森の切れ目が近づいてきた。大きく飛び上がった影の後を追って、私はまばゆい光の中に飛び込んだ。暗闇に慣れた目がくらむ。瞳を閉じた私は羽毛布団のような柔らかいものに、顔から倒れこんでいった。もはや、指先さえも動かせる気がしなかった。目を閉じたまま私は、必死に酸素をむさぼり続ける。
 やがて、呼吸が落ち着いてくる。瞼を上げ、まだ震える手をついて上半身を起こした私は息を呑んだ。そこには黄金色の海が広がっていた。
 手をついている地面を撫でる。ビロードの絨毯のような滑らかな感触とともに、金の光が煌めいた。
「……クローバー?」
 水面に見えたもの。それはクローバーの葉だった。体が浮くほどに密集して生えている半透明のクローバー。その上に私は倒れ込んでいた。おそるおそる一本千切って、顔の前に持ってくる。宝石のように煌めくその葉は、四つに割れていた。幸せの象徴、四つ葉のクローバー。
 一本だけではない。よくよく見てみると、辺りに生えているクローバー全てが四つ葉だった。
 私は手にしている葉を、指先でつまんでみた。フェルトのように柔らかく潰れたその葉は、内包していた七色の光を吐き出す。虹の滴が弾けたかのような美しさに魅入られてしまう。
 ガラス細工のように透明で柔らかいクローバーの葉。それらに金色の光が降り注ぎ、きらきらと乱反射をして、黄金色の海原が広がっているかのような光景を生み出していた。私は首を反らして空を仰ぐ。そこには黄金色に輝く巨大な太陽が浮いていた。
「なんとか逃げ切れたみたいだね」
 あまりに幻想的で非現実的な光景に見蕩れていた私は、はっと顔を上げる。全てを呑み込むようなあの『闇』、あれはもう追ってきていないのだろうか?
 振り返った私は、小さく悲鳴を上げる。クローバーの海原と暗い森の境目、私が倒れている位置からほんの少ししか離れていない場所に、『闇』が揺蕩っていた。それはいつの間にかそびえ立つほどに巨大に膨れ上がり、森の奥が見通せなくなっている。いや、もしかしたら森の内部にあった無数の大樹、踊り狂っていた松ぼっくり、そして落ち葉が敷き詰められた地面さえも『闇』に呑み込まれ、消えてしまったのかもしれない。
 もはや森の境目に立ち並ぶ樹の向こう側には、底なしの深淵が口を開けているようにしか見えなかった。私はクローバーの葉の上を這うようにして、『闇』から距離をとる。そのとき、頬に高級なタオルで撫でられたような柔らかい感触が走った。
「大丈夫だよ。あいつはいまのところ、こっちには来られないみたいだからさ」
 耳元で、あの小さい影の声がささやく。反射的に横を向くと、つぶらな瞳と視線が合った。琥珀のように淡く輝くオレンジ色の虹彩に、縦長の瞳孔が走っている美麗な瞳。
 そこには、見たことのない生物がたたずんでいた。
 基本的なフォルムは猫そのものだ。小柄な体を薄いクリーム色の柔らかい毛が覆っている。しかし、その耳は猫ではあり得ないほどに長く垂れ下がって、足元のクローバーに触れそうだった。
 ウサギの耳を持った猫。それ以外に、その生物を表す言葉は見つからなかった。
 こんな動物が見たことない。しかも、この生物は人の言葉を話すことができる。
 私はうさぎ猫を見つめながら、おずおずと口を開いた。
「あなたはいったい……?」
「僕はククルだよ。君のククルだ。よろしくね、愛衣」
 彼は挨拶でもするかのように、片耳をぴょこんと挙げた。


       7
「ククル……?」
 ウサギの耳を持つ猫と見つめ合いながら、私はその言葉を口の中で転がす。
――マブイグミをするときはね、ククルを探すんだよ。
 昨日、おばあちゃんからかけられた言葉を思い出し、私は目を見開いた。
「ククルって、おばあちゃんが言っていた……」
「そうだよ。僕がそのククル。愛衣のククルさ」
 うさぎ猫は器用にウインクをしてくる。あまりにも現実離れした状況に頭痛がしてくる。
「ま、待って。お願いだから、ちょっと待って……」
 私はククルに掌を突き出すと、もう片手で痛むこめかみを押さえる。ククルはタンポポの綿毛のような尻尾を細かく振った。耳だけでなく、尻尾の形もウサギのものらしい。
 あまりにも多くの疑問が頭を駆け巡り、脳の神経回路がショートしそうだった。なにから訊いていいか判断ができない。とりあえず……。
「とりあえず、あなたは、いったいなんなの……?」
 ククルは小首をかしげながら、「だから、ククルだってば」と答えた。
「そういうことじゃなくて、あなたはどんな存在なのっていうことが訊きたいの。あなたみたいな生き物、これまで見たことない」
「あっ、酷いこと言うなぁ。僕は哀しいよ」
 ククルは垂れた耳を動かして、目元を拭うような仕草を見せる。
「これまで、数えきれないくらい会ってるっていうのにさ」
「数えきれないくらい会ってる?」 
「そうだよ。僕たちは何度も会っているよ。何度も何度も何度も何度もね。ただ、愛衣は覚えていないだけさ。これまで、愛衣はユタじゃなかったからね」
「ユタ!」
 甲高い声を上げた私は、ククルに顔を近づける。ククルは「ど、どうしたの!?」と、驚いた猫よろしく黒目を大きくした。長い耳がピーンと垂直に立つ。
「ここに来る寸前、おばあちゃんに言われた通りにした……。言われた通り呪文を唱えて……」
「マブイグミをしようとした」
 ククルは私のセリフを引き継ぐと、ヒゲの生えている頬の辺り、ウィスカーパッドと呼ばれる部分をくいっと上げた。実際の猫では絶対に作れない皮肉っぽい表情。
「そう、だから愛衣はここに来たんだよ。マブイグミをするためにね」
 質問の答えが返ってくるたびに、さらに新しい疑問が湧いてくる。蟻地獄の巣に落ちてしまったような心地だった。もがけばもがくほどに、混乱の底へと引きずりこまれていく。
 額に手を当て呪文を唱えれば、イレスの患者が目を覚ます。それが『マブイグミ』というものだと思っていた。だからこそ、軽い気持ちで行ったのだ。それなのに……。
「こんなことあり得ない。悪い夢に決まっている」
 私が頭を抱えると、「うん、そうだよ」とククルが軽い口調で答えた。
「え? 夢……なの……? ここは私の夢の中なの?」
 顔を上げた私はおずおずと訊ねる。儚い期待とともに。
「うん、たしかに夢の中だよ。けれど……」ククルは琥珀色の瞳を細めた。「愛衣の夢じゃない」
 私の夢じゃない? その意味を必死に考えていた私の脳裏に、ベッドに横たわる飛鳥さんの姿が蘇った。体が大きく震える。閉じられた彼女の瞼は細かく痙攣していた。薄皮の下で激しく動く眼球によって。
 急速眼球運動。それが起きている人物は、鮮明な夢を見ていることが多い。
「まさか……」
 かすれ声を漏らすと、ククルは柏手でも打つように長い両耳を合わせた。
「そう、片桐飛鳥の夢の中さ。愛衣はそこに這入り込んだんだよ。僕と一緒にね」
 飛鳥さんの夢の中……。私は口を半開きにしたまま、煌めく半透明のクローバーで敷き詰められた平原を眺める。金色に輝いていた私の周囲が突然、濃い紅色に姿を変えた。紅葉したかのようにクローバーが色づき、萌え上がる。
空を見上げると、天空に輝いていた金色の太陽が遠くまで流され、代わりにルビーのように深い紅色の天体が光を落としていた。その美しさに目を奪われ、空を仰いでしまう。
 蒼、白銀、紫、藍、橙……。さっきまでは金色の太陽の光が強すぎて気づかなかったが、鮮やかに、艶やかに輝く無数の球体がいくつもそこには浮かんでいた。
 無数の天体が地上に落とす色とりどりの星明かりが、群生するクローバーの葉に乱反射し、光の絨毯を作り出している。
「まあ、厳密に言うと、夢の中というのは正確じゃないかもね」
 固まっている私の傍らでククルがつぶやく。
「本来、『夢』っていうものはすぐに醒めるものだ。もっと脆くて儚いものだ。けれど、この世界はとっても頑丈で、そう簡単には崩れ落ちることはない。果てしなく広がり、見ている人間を延々とこの世界に縛り付ける。いくら追いかけても捕まらない蜃気楼みたいな、幻の夢。僕たちはここを『夢幻の世界』って呼んでいる」
「夢幻の世界……」私は呆然とその言葉をくり返す。
「そう、サーダカンマリな人に吸われて自分の体を離れたマブイは多くの場合、強制的に仮死状態になり、醒めない夢を見はじめる。それが『夢幻の世界』さ。体から離れても、肉体とマブイの間には繋がりは残っている。だから、マブイが抜けて空っぽになった体も同じように夢を、『夢幻の世界』を見続けているんだよ。そして、ユタの力を持つ人間ならマブイが抜けた体に触れることで、『夢幻の世界』へ這入り込むことができるんだ」
 普通に考えたら、あまりにも常識はずれな話。しかし、現実ではありえない幻想的な光景に魅入られている私は自然と、ここが飛鳥さんの見ている夢の世界であるということを受け入れてしまう。自分の中に確固なものとして存在していた常識が、波に削られる岩礁のようにじわじわと侵食されていく。胸に手を当てて数回深呼吸をくり返すと、私はククルを見つめた。
「つまり、私がこの世界、飛鳥さんの『夢幻の世界』でなにかをすることが、マブイグミっていうものなのね」
「だから、ずっとそう言っているじゃないか。理解が悪いね」
 小馬鹿にするように黒くて小さい鼻を鳴らされ、頬が引きつる。あなたの説明が適当だったからでしょ、という文句をなんとか呑み込んで、私は質問を続けた。
「そのマブイグミが成功すれば、飛鳥さんは目を覚ますのね。イレスは治るのよね」
「うん、マブイグミさえ成功すれば体にマブイが戻るよ」
 おばあちゃんはイレスを「マブイが落ちたせいだ」と言っていた。その言葉が正しければ、マブイ、つまりは魂が体に戻れば目を覚ますはずだ。医師である自分がそんな非科学的なものを認めつつあることに抵抗をおぼえるが、現にいま、あまりにも非科学的な世界に迷い込んでいる。毒を食らわば皿まで。目の前にちょこんと座る、非現実的な動物の言葉を信じてみよう。
「それであなたは、マブイグミの方法を知っているの?」
「もちろんだよ」ククルは得意げに、ふわふわの体毛に覆われた胸を反らす。「それを教えるために、僕はここに来たんだからね」
「じゃあ教えて、私はなにをすればいいの? どうすれば飛鳥さんは目覚めるの?」
「まずは……」
 なにか言いかけたところで、ククルの両耳がピーンと立った。薄いクリーム色の体毛が逆立ち、体が一回り大きくなったように見える。猫らしく細い縦長だった瞳孔が大きく開き、瞳が真っ黒に染まる。猫を飼っていたことがある私は、その様子がなにを意味しているのかすぐに理解した。
 強い警戒、または恐怖。
ククルの漆黒の瞳は私の背後を睨んでいる。おずおずと振り向いた私の口から、か細い悲鳴が漏れた。クローバーの平原と巨樹の森、その境界線から、さっき私たちを追いかけてきた『闇』がじわじわと滲み出していた。
「走って!」そう叫ぶと同時に、ククルがクローバーの絨毯を蹴って駆けだす。
「ま、待って……」
 私も慌てて立ち上がると、ククルのあとを追って再び走りはじめた。
「なんで!? あの『闇』、こっちには来れないんじゃ……」
 息を乱しながら、私は少し前を走るククルに話しかける。葉が密集してできている地面は、柔らかくて走りにくい。クローバーを踏みつけた足が沈み込むたびに、顔の高さまで光の飛沫が舞い上がるが、それを楽しむ余裕などなかった。
 少し休めたとはいえ、体はボロボロだ。足は枷を嵌められたように重く、すぐに息が上がる。
「そう思ったんだけど、違ったみたいだね」
 振り向くこともせず、走り続けながらククルは答えた。
 そんな無責任な! 抗議をしたいが、息苦しさと恐怖でそれどころではない。私は必死に足を進めつつ、首だけ振り返る。『闇』は森の中のように立体的に膨れ上がるのではなく、地を這うように追ってきていた。水面に落とされた墨汁のように、不規則に広がっていく『闇』に、クローバーが光の残滓を煌めかせながら呑み込まれていく。
 空に浮かぶ無数の天体から光が降り注いでいるが、『闇』の内部の様子は全く見えなかった。光さえも逃れられないブラックホールのように。
「なにしてるんだよ!? 振り返るなって言ったじゃないか!」
 ククルの鋭い叱責を浴び、私は正面に向き直った。同時に、必死に動かしていた足が止まる。
 地平線が消えていた。
 いや、それは正しくない。地平線の向こうまで延々と続いていたはずのクローバーの平原が消え去ったのだ。『闇』に呑み込まれて。
 地平線という概念すら消し去られたそこには、ただ『無』が広がっていた。
 延々と永遠に。
 私は両目を手でこする。『闇』との距離が把握できない。遥か遠くにあるようにも、すぐそこまで迫っているようにも見えてしまう。ただ一つ確かなのは、それが近づいてきているということだった。私を、そしてこの世界を呑み込もうという確固たる意志を持って。
 せわしなく周囲に視線を送った私は、絶望に膝を折る。三六〇度、ありとあらゆる場所から『闇』が迫っていた。虚無の空間に浮かぶクローバー。そこに私とククルは取り残されてしまった。
「なんで!? 後ろにいたはずなのに! 追い抜かれたりしなかったのに!」
 なにかがおかしい。この世界はなにかが狂っている。森の中でもそうだった。少し視線を外しただけで、樹が出現したり消えたりしていた。今度はそれが『闇』で起こっている。
「ああ、言わんこっちゃない。だから振り返るなって言ったのに」
 足元に寄り添ったククルが、これ見よがしにため息をついた。
「どういう意味!? いったいなにが起きているの?」
「さっき言ったじゃないか。ずっと前だけ見て走れってさ。そうしなかったからだよ。だってここは『距離』の概念が狂った世界なんだから」
「距離の……概念……」
 呆然とその概念をくり返す私の脳裏に、この世界に迷い込んでからの経験が蘇る。
 森の奥行きが分からなかった。視界から消えるたびに、瞬間移動でもしたかのように松ぼっくりや樹が移動していた。『闇』との距離感もずっとつかめずにいた。
「でも……、でもそんなこと、現実に起きるわけ……」
「現実じゃないんだってば。ここは『夢幻の世界』。片桐飛鳥という人物が生み出した、現実とは全く違うルールが存在する世界さ。だから、距離の概念がおかしくなっているのさ」
「だからってどういう意味!?」
 じわじわと嬲るように迫ってくる『闇』に怯えながら、私は声を張り上げる。
「片桐飛鳥は何ヶ月か前に事故に遭っているでしょ。そこで、彼女はどうなった?」
「どうなったって……」
 舌がこわばってうまく声が出ない。飛鳥さんが遭った事故と、この不合理な世界。そこにどんな関係が……。そこまで考えたとき、額に電気が走った気がした。私はびくりと背を伸ばす。
「事故の際に破片が当たって……、飛鳥さんは片目を失明した」
 無意識に、抑揚のない言葉が口からこぼれていく。
「人間は両目で見ることで物体の遠近を捉えている。けれど、事故によって飛鳥さんはそれができなくなった。だから……」
「そう、だから彼女の夢幻であるこの世界では、『距離』が意味をなさなくなっている。ここでは遠いものが近くにあり、近くのものが遠くにある。この世界は果てしなく広がっていると同時に、限りなく狭い。そんな矛盾がここでは当然のように存在しているのさ」
 歌うように言うククルのそばで、私は音もなく迫ってくる『闇』を指さす。
「それじゃあ、あれは!? あの『闇』はなんなの?」
「うーん、多分だけど、あれは『無』なんじゃないかな?」 
「『無』ってなに!?」思わせぶりなククルの口調に、思わず叫んでしまう。
「この『夢幻の世界』を作った人は片目を失明したんでしょ。いままで見えていたその部分が消え去った。人間は主に視力によって周囲の状況を把握する。つまり彼女にとって、世界の半分が『無くなった』に等しいんだよ」
「だから、あの『闇』が生まれたっていうこと!?」
「多分ね。まあ、あとは彼女が感じた絶望とかも関係していると思うけど。なんにしろ、あの『闇』は視界の外に生じる。だからずっと前を見て走れって言ったんだよ」
「ああ……」
 取り囲まれる前、私は振り返ってしまった。だからこそ、進行方向、地平線の果てにも『闇』が生じてしまったのか。そして、立ち止まって辺りをぐるりと見回すことで、自ら取り囲まれてしまった。この世界のルールを完全に把握したわけではない。けれど、自分の行動により追い詰められたことだけは理解できた。
「僕の言うことを聞いていたらこんなことにならなかったんだよ。次からは気をつけてよね」
 ククルは片耳を器用に動かして頬を掻いた。
「なんでそんな余裕なの!? 完全に取り囲まれているんだよ。あれに呑み込まれたらどうなるの!?」
 やはり正確な『距離』は分からないが、明らかに『闇』はクローバーの平原を侵食しながら近づいている。あと数分もしないうちに、私たちの足元まで到達するだろう。
「さあ、そこまでは僕にも分からないよ。まあ、少なくともろくなことにはならないだろうね。跡形もなく消滅するか、底なしの深淵に向かって永遠に落下していくのか」
 体温が一気に下がった気がした。全身に鳥肌が立つ。表情を強張らせる私に向かい、ククルは口角を上げた。猫では決して見せることのない笑顔に、軽くのけぞってしまう。
「大丈夫だよ。逃げ道を見つけたからね」
「逃げ道!?」
 私は目を見開いて周囲を見回す。しかし、全方位で『闇』がクローバーの平原を削り取り、その代わりに漆黒の穴が、『無』が広がっていた。
「逃げ道なんてどこにもないじゃない!」
「愛衣は視野が狭いなあ。ちゃんとあるじゃないか。『闇』が広がっていないところがさ」
 ククルは「あそこだよ」と片耳を垂直に上げた。つられて私は首を反らす。
「あそこって……空?」
「そう、『闇』は地面を這って広がっている。それなら空に逃げればいいんだよ」
 ククルは長い両耳を大きく上下に振った。鳥が羽ばたくように。彼の小さな体がふわりと浮き上がる。耳を振るたびに、上へ上へと。私はその光景を、口を半開きにして眺めていた。
「なに阿呆面を晒しているんだい。愛衣も早くおいでよ」
 耳を羽ばたかせながらククルが見下ろしてくる。
「なに言っているの!? そんなことできるわけないでしょ!」
「なんで?」心から不思議そうにククルは小首をかしげる。
「なんでって、人間の体は空を飛べるようになんて……」
「体? 体なんてどこにあるの?」
 なにを言われたか分からず、私は「え?」と声を漏らす。
「愛衣は体ごと、この世界に這入り込んだと思っているの? そんなわけないでしょ。マブイグミをしたときのことを思い出してごらんよ」
 言われて、必死に記憶をたどる。あの時、飛鳥さんの額に触れた手からオレンジ色の光が、『私』が彼女へと流れ込んでいった。じゃあ、ここにいるのは……。私ははっと息を呑む。
「ようやく気づいたみたいだね。そう、ここにいる君は『識名愛衣』という人間そのもの。よく『魂』とか呼ばれるものなんだよ。僕たちはそれを『マブイ』と呼んでいる」
「マブイ……」私は自分の体を見下ろす。普段となに一つ変わることのない自分の体を。
「その姿をしているのは、その姿こそ『自分』だって愛衣が認識しているからさ。さっき走ったときに苦しかったのも同じだ。全力疾走すれば筋肉が疲労する、心肺が悲鳴を上げる。そう自分で思い込んでいるからだ。けれど実際は、筋肉も心臓も肺も、この世界には存在していない。なぜなら、現実の世界に置いてきているからだ」
 滔々と語るククルのセリフに、私は耳を傾け続ける。実際には、ここには存在していない耳を。
『闇』はさらに近づいてきていた。ほどなく私が立つ足場に到達するだろう。
「この世界で、君はなんの制約も受けていない。なんにでもなれるんだ。愛衣、君は自由なんだ。君自身が信じさえすればね」
 信じれば、自由になれる。その言葉に、皮膚の下で細かい泡が弾けていくような感覚が広がる。その感覚は次第に背中の上部へと集中していった。熱を帯びた肩甲骨が柔らかく変化し、徐々にうねっていく。もはやそれは、カルシウムとリンで構成された硬い骨ではなくなっていた。
 私の変化に感づいたかのように、『闇』が速度を上げて近づいてきた。足元のクローバーの葉が大きく揺れ、白銀の煌めきが舞い上がって私の体を包み込む。『闇』が足場を薙ぎ、クローバーの絨毯が消失する。重力に引かれ、体が落下をはじめる。
「愛衣、心を解き放つんだ!」
 ククルが声を上げる。それと同時に、蠢いていた肩甲骨が一点に凝縮し、そして……一気に膨れ上がった。それは皮膚を突き破り、体の左右に大きく広がる。
 私はその肩甲骨だったものを振り下ろした。身長よりもはるかに長い、純白の翼を。
 周囲に纏わりついていた細かい光の雫が霧散し、落下していた体が浮き上がる。
 上へ行きたい。そう思うだけで、猛禽を彷彿させるその巨大な翼は力強く羽ばたき、体を押し上げてくれる。眼下に広がる『闇』、なにも存在しない空間を一瞥した私は顔を上げると、いつの間にか遥か上空を漂っているククルへとまっすぐに飛んでいく。
「やあ、うまくいったみたいだね」
 そばまで浮かび上がってきた私に、ククルは気障なウインクをしてきた。興奮で顔を火照らせながら、私は身を乗り出す。
「信じられない! 本当に飛べるなんて!」
「いや、愛衣が信じたからこそ、その羽は生えたんだよ。けれど、なんか無骨な翼だね。女の子なんだから、もっと可憐なものをイメージできなかったのかい。天使の羽みたいなさ」
「いまの時代、女も強くないとやっていけないの。すごくかっこいいじゃない」
 私は一際強く羽ばたく。生えたばかりだというのに、意思どおりに羽が動き、空中を移動することができる。翼から外れた羽毛がふわりと舞い、私の頬を撫でていった。
「さて、とりあえず危険はなくなったし、気を取り直してマブイグミにとりかかろうか」
 ククルは前足の肉球を合わせる。ぽむっという気の抜けた音が響いた。
「けどあの『闇』、空まで追いかけてくることはないかな」
 興奮で一時的に忘れていた不安がぶり返してくる。
「うーん、絶対とは言えないけれど、大丈夫そうだよ。ほら、地面を全て呑み込んでからは、それ以上膨らんでくる気配はないし。この『夢幻の世界』では、空は特別な場所なのかもね」
 そうかもしれない。私は宝石のごとき無数の天体が浮かぶ天空を見上げる。パイロットを目指していた飛鳥さんが、大空に特別な想いを抱いていても不思議ではない。きっとだからこそ、この世界では空がこんなにも美しいのだ。
けれど、彼女は事故で空を失った。その絶望が、彼女がイレスにかかった原因なのだろうか? それがあの『闇』を生み出したのだろうか?
 そこまで考えたとき、私はふとあることに気づき隣に浮かぶククルを見る。
「ねえ、もしさっき私があの『闇』に呑み込まれていたらどうなったの?」
「さっき言ったじゃないか。永遠に落下し続けるか、消滅するか……」
「そうじゃなくて、この世界で私が……死んだら、現実の私はどうなるの? 普通に目を醒ますだけなの?」
 ククルの表情が硬くなる。そのヒゲがピンっと張った。
「この世界の愛衣は体を持っていないから、一般的な意味での『死』はおとずれることはない。けれど、傷ついたり、消滅したりすることはあり得る」
「そうなったら……、私はどうなるの?」
「この世界で君が受ける傷は、精神の傷だ。小さな傷ならすぐに治癒する。かすり傷がすぐ治るみたいにね。けれど、大きな傷を負った場合、現実世界に戻っても傷が癒えるまでの長い時間、精神的な苦痛が続く場合がある。場合によっては死ぬまでずっと……」
 私は喉を鳴らして唾を呑み込む。幼いときに負ったトラウマにいまも苛まれている私は、それがどれだけ苦しいことなのか、身をもって知っていた。
「それじゃあ、……消滅した場合は?」
 私は震える声を絞り出す。ククルはあごを引くと、瞳孔が縦長になった目で見つめてきた。
「消滅すれば、体にマブイが戻ることはない。二度と目覚めることなく、肉体は空の器になる」
 この世界では呼吸など必要ないはずなのに、息が乱れてくる。パニック発作が起きる前兆。落ち着かないと。冷静にならないと、またあの身を裂かれるような苦痛を味わうことになる。
「つっ……!?」
必死に深呼吸をくり返していた私は、強い痛みをおぼえて胸元を押さえる。掌の下のシャツに、じわじわと黒い染みが広がっていった。
「なに、これ!?」
 悲鳴を上げ、せわしなくシャツの襟元を覗き込んだ私は目を剥く。両乳房の間から右の脇腹にかけて傷跡が走っていた。ごつごつとしたかさぶたで覆われた、巨大な傷跡が。そのかさぶたの一部が剥がれ、赤黒い血液が滲み出している。
 ああ、そうか。傷跡の位置を見て、私は全てを理解した。それはあの日、彼女が負った傷と同じ場所に刻まれていたから。
 これは私の傷だ。幼い頃、心に負った深い傷。いまここにいる私は、精神を映しだしたもの。だからこそ、この傷跡が深く刻まれているのだ。そして、この傷跡を覆っているかさぶたは、なにかのきっかけがあれば容易に剥がれ、出血を起こす。
 私は血が滲んでいる傷口に掌を当てる。激しい疼痛が走った。
 歯を食いしばる私を、ククルは心配そうに見つめていた。
「……もう、やめるかい?」
 私は「え?」と、痛みで歪んだ顔を上げる。
「僕なら、この世界から愛衣を解放することができる。片桐飛鳥の額に触れている体に、愛衣を戻すことができるんだ。ただ、それには少し準備が必要だ」
「……つまり、危険な目に遭っても、すぐにこの世界から離脱できるわけじゃないのね」
 私は拍動するような痛みに耐えながら、弱々しくつぶやく。
「うん、そういうこと。この世界にはどんな危険があるか分からない。ただ、愛衣の安全は僕が保証するよ。僕は特別だからね」
「特別?」
「うん、そうさ。僕はユタである愛衣のククルだから、すごいパワーを持っているんだよ。だから、夢幻の世界でどんなことが起ころうと、君の身は守ってあげるよ」
 誇らしげに言った後、ククルは「でも……」と続ける。
「きっと、マブイグミをしていくうちに愛衣は苦しい思いすることになる。つらい過去を思い出してね。だからここでマブイグミをやめるって言っても、僕はそれを止めはしない」
「……マブイグミをしない限り、飛鳥さんは眠り続けるの?」
「そうだね。マブイが戻らない限り、空っぽの肉体が目覚めることはない。朽ち果てるまでね」
 私は脈打つように疼く傷口を押さえたまま、唇に歯を立てる。
 医師として、どうにか彼女を助けてあげたい。けれど、それにはリスクが伴う。目の前のうさぎ猫は私の身の安全を保障するなどと言っているが、その言葉をどれだけ信用していいのか、皆目見当がつかない。ともすれば、自分の命まで失うリスクがあるということだ。
患者のためとはいえ、そこまでする必要があるのだろうか?
 ……ない。私はすぐに結論を出す。医療を行うにあたり、医療者は感染等のリスクから自分を守ることを徹底して教え込まれる。医師がその生涯で救わなくてはならない患者はあまりにも多いのだ。一人の患者の治療で自らを危険にさらしていては、その他、大勢の患者に対して義務を負うことができない。だから、私はすぐにでもこのおかしな世界から逃げ出すべきなのだ。
 ……患者を救うことだけが目的だとしたら。
 私は胸元を押さえる手に力を込める。爪が皮膚に、そして傷口に食い込み、焼けた鉄を押し当てられたような激痛が脳天まで突き抜けた。指の間から粘着質な血液が溢れ出してくる。
「愛衣!?」
 驚きの声を上げるククルを見据えた私は、食いしばった歯の隙間から声を絞り出す。
「やめない! 私は絶対に飛鳥さんを助ける!」
 飛鳥さんを、担当している三人の患者を救うことは、自分を救うことだ。
 あの日、幼かった私の心に刻まれた深い傷。いまもこうして疼き、血を噴き出している傷は、イレスの患者たちを救うことで癒される。そう確信していた。なら、リスクを取る価値はある。
 私は皮膚に醜く刻まれた傷口を見つめる。まばたきもせずに、凝視し続ける。
 袴田先生が言ったように、私はトラウマを心の抽斗に隠す技術を覚えたに過ぎなかった。この傷跡をガーゼで覆い隠していただけだった。治りきっていないこの傷はいつか開き、感染し、膿んでいくだろう。そして、私の精神は腐り果ててしまう。
 だから前に進もう。三人の患者を目覚めさせ、トラウマを乗り越えよう。
「いいんだね?」
 訊ねてくるククルに、私は力強く頷いた。
「なかなかいい表情になったじゃないか。さっきまで、迷子の子供みたいだったのにさ。傷の方も、とりあえず落ち着いたみたいだね」
 言われて私は気づく。いつの間にか、胸の痛みが消え去っていた。視線を落とすと、傷は厚いかさぶたで覆いつくされていた。体、手、そしてシャツを汚していた赤黒い血も消え去っている。
「それじゃあ、どこに行こうか?」
 唖然と自分の体を見つめていた私は、ククルに声を掛けられて我に返る。
「え? どこに行くって?」
「だから、マブイグミを続けるんだろ。そのためにはまず、ククルを探さないといけないんだよ」
「なに言っているの? あなたがククルでしょ」
「違う違う、僕じゃない。僕は愛衣のククルだからね。探すのはこの世界にいるはずの、『片桐飛鳥のククル』だよ」
「え? ちょっと待って。ククルっていっぱいいるわけ?」
 額を押さえる。次々に出てくる新しい情報に頭がパンクしそうだった。
「そうだよ。ククルはマブイを映す鏡みたいなもの。成長の過程での記憶や経験、あとまあ色々なものが積み重なって、マブイと一緒に成長していくものなんだ」
「色々なものって……」適当な説明に、鼻の付け根にしわが寄ってしまう。
「なんにしろ、ククルは誰もが持っているものなんだよ。ククルはその人物のなかで、マブイに寄り添って存在している。そして、夢でよく会っているんだ」
「本当に、私は夢であなたと何度も会っているの? その夢を忘れているだけなの?」
「うん。ほら、よくあるでしょ。起きたとき、楽しかったり、哀しかったりしたことは覚えているのに、夢の内容は記憶がないことがさ」
 確かにある。起きると胸が苦しくて、涙が頬を伝った跡があるのに、どんな夢を見たか思い出せないときが。
「じゃあ、この世界から出て目覚めたら、私はまたあなたのことを忘れているってこと?」
 ククルは「ううん」と首を横に振った。
「大丈夫。愛衣はもうユタの能力が覚醒しているからね。僕と会った夢もおぼえていられるはずだよ。そもそも、この世界は愛衣の夢じゃないしさ。僕は愛衣と一緒に、マブイグミのために、片桐飛鳥が生み出した『夢幻の世界』に這入りこんできたんだよ」
 ククルの説明はお世辞にも分かり易いとはいえなかったが、大まかな状況は把握できた。
 誰もが『ククル』という存在を内面に持っていて、覚えてはいないが夢の中で会うことができる。そして、私のククルであるこのうさぎ猫は、飛鳥さんの額を触って呪文を唱えたとき、私と一緒にこの世界に侵入してきた。そういうことなのだろう。
「つまり、この『夢幻の世界』にいる、『飛鳥さんのククル』を見つければいいってことね」
 私が確認すると、ククルは「最初からそう言っているじゃないか」と面倒くさそうに前足を振った。その態度にイラッとしながら、私は質問を続ける。
「で、飛鳥さんのククルはどこにいるの?」
「さあ?」ククルは前足の付け根をすくめた。
「さあって……」
 絶句する私の顔の前まで、ククルは耳を羽ばたかせて浮かび上がってきた。
「僕はもともとこの世界の存在じゃない。愛衣をサポートするために、一緒にここに来ただけだ。だから、この世界についての知識は、愛衣と同じくらいしか持ってないんだよ。全部僕に頼らないで、愛衣も自分で考えなよ。マブイグミをするのは僕じゃなくて、愛衣なんだからさ」
 ククルの前足が鼻先に触れる。
「そ、そうだよね」私は首をすくめる。「あのさ、この世界のどこかに『飛鳥さんのククル』がいるのは間違いないのね」
「うん、それは確実。夢幻の世界には、その世界を創り出している人物のククルが絶対いる」
「それじゃあ、なにかヒントはないの? ククルがよくいる場所とかさ」
「そうだね……」ククルは前足を口元に当てた。「一般的にククルは、その人物の思い入れが強い場所にいる傾向があるかな」
「思い入れ……」ホバリングを続けたまま、私は腕を組む。
 飛鳥さんにとって思い入れのある場所……。彼女はパイロットを目指していた。けれど、事故によってその夢を奪われ、絶望の底へと追い込まれた。それなら……。
 首を反らして空を見上げる。宝石のごとき輝きを放つ、色とりどりの天体が浮かぶ天空を。
 あそこだ。きっとあそこに違いない。
「ククル。行くよ」私は翼を強く振り下ろす。体が上昇をはじめた。
 翼を強く羽ばたかせるたびに体が加速していく。左右に割れて流れていく風が心地いい。
「急に移動しないでよね。びっくりするじゃないか」
 耳をせわしなく動かしながら追いついてきたククルに、「ごめんごめん」と謝ると、私は遥か遠くに見える、美しい空を指さす。
「ねえ、あそこまでどれくらいかかるかな? かなりスピード出ているはずなんだけどさ」
「まったく、愛衣は分かっていないなぁ」
 小馬鹿にするような口調。私は横目で「どういう意味?」とククルを睨む。
「だからさ、この世界では『距離』の概念が狂っているんだよ。そんな世界で速度がどんな意味を持つっていうんだい?」
「じゃあ、どうやったらあそこまで早くたどり着けるの?」
「この世界の法則に従うのさ。ここでは、対象を見ている限り、それは遠ざかりも近づきもしない。けど、視界の外では遠くにあると同時に、すぐ近くにもある。『夢幻の世界』を支配するのは物理法則じゃない、精神だ。だから、近くにあると信じれば、すぐそばに存在する。……ほらね」
 ククルの体が唐突に減速した。辺りが急に暗くなる。「え?」と、進行方向に視線を戻した私は目を見開く。すぐ目の前に、紫に輝く球体が浮かんでいた。羽を思い切り広げて急ブレーキをかけるが間に合わない。
 ぶつかる! 私は反射的に両手で顔を庇って目を閉じる。しかし、予想した衝撃はなかった。代わりに、少し粘度のある温かさに包まれる。
 おずおずと目を開けた私は息を呑む。体が光の中に浮かんでいた。紫色の柔らかい光の塊、それが私を覆いつくしていた。温かい水の中を漂っているような感覚。
 大きく羽を動かしてみる。体を包み込んでいた光がはじけ飛び、無数の眩い煌めきとなって漂っては、周囲に漂う数多の光球へと吸い込まれていく。
 近づいてきたククルが、近くに浮かんでいた小さな蒼い光球を無造作に耳で払った。それは割れることなく移動すると、他の紅い光球にぶつかる。
 二つの光球はさらに他の光球にぶつかっていき、次第に数えきれないほどの光球が連鎖的に衝突しては不規則に動いていった。それはまるで、宝石のビリヤードのようだった。
 光球が通過した後には、光の軌跡が残り、空間に三次元の幾何学模様が描かれていく。
「もっと大きな星が浮かんでいるんだと思ってた……」
 幻想的な光景に見惚れながら私はつぶやく。
「『距離』がおかしいこの世界では、遠近感も狂っているからね。それにこの世界では、この光の球こそが『星』なんじゃないかな。ほら、星でできているはずの天の川もあんな感じだし」
 ククルは耳で私の背後を指さす。振り返った私は声を失った。
 光球の海の向こう側に、川が浮かんでいた。絶えず色を変えながら流れる光の奔流が。
 その川に私は近づいていく。もう羽ばたく必要はなかった。この空間に重力は存在しなかった。上下も左右も曖昧な世界を、泳ぐように四肢を動かして移動していく。
 いくつもの光球を掻き分け、ときには中を通過しながらその川の縁までたどり着いた私は、おそるおそる流れに手を入れてみる。
 せき止められた水が飛沫を上げるように、掌の回りで虹が弾けた。その光景に魅入られていると、両耳で平泳ぎをするようにしてククルが近づいてくる。
「いやあ、圧巻だね。この『夢幻の世界』を創りあげている人物は、かなりロマンティックで想像力が豊かなんだろうね」
「きっと、この近くに『飛鳥さんのククル』がいるよ。だって、こんなに綺麗な世界なんだよ」
「その可能性は高いかもね。もしかしたら、この天の川の中にいるかも」
「そう、きっとそうだよ! だって、ここが一番綺麗だもん」
 興奮で声を裏返す私の背後に、すっとククルは移動する。
「じゃあ、中に入ってみないとね」
 そう言うや否や、ククルは私の背中に向かって思い切り体当たりをした。天の川のほとりにいた私は、そのまま光の奔流に巻き込まれ、流されはじめる。
 溺れる!? 恐怖にかられて両手をばたつかせるたび、そこに七色の泡が生じて体に纏わりつく。呼吸が苦しくなり、私は川から這い上がろうと必死にもがいた。
「落ち着きなって」
 耳元でささやかれ、私は横を向く。そこでは、ククルが長い耳をたなびかせながら、流れに身を任せていた。川の中だというのに、その声ははっきりと聞こえてくる。
「さっきから何度も言っているだろ。いまの愛衣はマブイ、つまりは精神体なの。体がここにあるわけじゃないんだから、本当は呼吸をする必要もない。だから、溺れるわけないじゃない。苦しいとしたら、そう思い込んでいるからだよ。ね、もう苦しくないでしょ」
 いつの間にか息苦しさが消え去っていた。溺れないよう固く閉じていた口を開け、そっと呼吸をしてみた。周囲に浮かんでいた細かい虹の泡が、体内に吸い込まれていく。胸の中に泡が弾ける感触が広がり、全身が淡く輝きだす。
 七色に次々と変化する光を放ちながら流されていると、自分がこのどこまでも美しい川の一部になったような心地になる。
 体の力を抜き、私は流れに身を任す。幾重にも織り重なったオーロラの中に浮かんでいるような感覚。波打ちながら色彩を変える光のカーテンの奥に、鮮やかに、艶やかに輝く光球が散らばる海原が、果てしなく広がっている。
 その光景に魅了されながら、私はこのどこまでも美しい『夢幻の世界』を漂い続けた。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
ありがとうございます!
90
小説家と内科医をしています。 『天久鷹央の推理カルテ』等の小説を書いています。 ここでは『天久鷹央シリーズ』の掌編やエッセイ等を載せていこうと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。