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ショートショート(11)パイプ椅子(2020/08/28)

とにかくムシャクシャする。
そしてその感情は自分にとても適している。

だがしかし、ムシャクシャする。

近くにあるパイプ椅子でも蹴り飛ばしたら気分が落ち着くのかと思って、パイプ椅子の足に自分の足を添えてみたけどただ冷たく無機質で、人に座られる役目を全うしているパイプ椅子を蹴る気になんてなれなかった。たぶんもっと蹴られるべき対象は世の中に存在してるし、第一、蹴って自分の骨でも折れたらたまったもんじゃない。
ここまで思考して、ムシャクシャするにも関わらず冷静に俯瞰する自分に嫌気という愛着が湧いた。

とにかく世の中に対してなのか、自分の周りの世間に対してなのかわからないけれど納得いかないことが多すぎる。こんなに納得がいかないのは、内面的な問題が、自意識の幕を破っているだけなのだろうか。まあ、ただ問題の全てを自分の責任にしたらただ自責の癖がついてしまう気がするから一概に自分を責めることもできかねる。それもうざい。

自分的には、こんな風に目を細めて静かに怒り狂っているのが正直自分らしいと思うんだけどな。
明るくニコニコしてないで本心言いなよって言われたから、こうしてスンってしてる割合を増やしたら最近怒ってる?って言われて、ああ君には私の正解があるんだなと思った。

周りに対して攻撃的にもなってないつもりだし、冷静に俯瞰して物事を眺めるのがデフォルト設定なんだよな。それなのによってたかって、本心、感情、フィーリング。なんだよそれ。自分の人生にそんなものなかった。大事に持ってからぶっ壊された。ぶっ壊されない人からするとそれらを持ってないことが異常かもしれないけれど、攻撃的に返答するなら、それを持ってると思い込んでることが異常だし恵まれてる。

だからこの怒りの感情大好きだよ。あるいはそう思おうとしてきた。怒りってその人の本質が見えるから、何を大切にしているかが顕著に現れる。けど、だからと言って言葉の語気を荒くして、反対意見の人間を攻撃してはいけないわけよ。それを履き違えている人間が多すぎるとは思いませんか?

ああこういう自分の主張だって、言い訳とか負け犬とか結果出してから言えよ、とか、面倒臭い、とかややこしい、とかそんな簡単な言葉で片付けるんだろ。そういう人とは分かりあえないから、喧嘩も和解もしない。ただ存在は認める。それでいいと思うんだけどさ、なぜ一つにまとめようとするんだろうねばーか。

表現の自由があるから好き勝手なことを言う自由がある。たしかにある。だからその言葉を受け取るかどうかはこっちの勝手だよな。

ああ改めて正義とか正解を振りかざされるのが大嫌いなんだな。多様性は認める。それぞれがそれぞれに対して自分の思考があることは当然ながら理解してるし、それぞれの思想を否定は一切しない。ただ、自分の正しいを押し付けないでほしい。共感を求めないでほしい。共感を求められると、そう思わない自分を除け者にしたい、もしくは同じであることで安心したい人間が垣間見えるようで気持ちが悪い。

例えば最近の事例だと、
手紙は手書きだから伝わるっていう主張について。たしかにそうだけど、だからといって電子媒体での手紙を淘汰する理由にはならないだろう。一つだけが正しいと思うな。そしてそれを強制するな。染まることで安心するな。ずっと安全地帯にいようとするな。

と、思う。自分は思う。そう思わないこともいるかもしれないが異論は全くない。

そういや自分にも親いるんだけれど、とにかく人を言葉で攻撃する習性があって、直す気もさらさらない。小さい頃はそれでだいぶ心を抉られてきて、大抵の場合は親が正義、子どもが悪とされるんだけど、ちなみにその定義で縛り付ける柔軟性のなさには200回くらい吐気を催している。

その親がいつも正義と正解で刺し殺そうとするくせに、
「自分はこう思う。お前はどう思うか知らないけど」
と一線引いたような対応を取るのが昔から嫌いだった。嫌いだったというと親に対して不遜とかこれまた1億回くらい言われるから静かに口を閉じるんだけど、そうやって突き放して何がしたいんだろう。子どもにだって自我がある。自分の物差しでいつまでも測ろうとしないでくれ。それに良い加減気がついたらどうなんだ、とか思ってるうちに親歴25年以上なんだよ。子どもなら分かってくれる、親が大人になるべき、そんなエゴさっさとゴミ箱に捨ててしまえばよかった。期待して裏切られるの繰り返し。それに関しては一生変わんないんだろうな。

お前は偉いな。やるべきことを全うして。
人に座られるまでここで待って。
それなのにたまに蹴られたり、雑に扱われたりして、なんて人間って勝手なやつなんだろう。感情があるからって調子乗んなよ、人間。って今絶対思ったよな?

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