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1日だけの登校拒否をした話。大人になってから考えること。

6月2日のnoteで、1日だけ登校拒否をしたことについて書いた。

あの時の自分は、放課後のお遊びとかで、「仲間外れにされている」と感じながらも、腹を立ててその場を立ち去ることができなかった。何でだろう?と考えてみた。

1、とにかく負けたくなかった

わたしの根本的な部分に「負けず嫌い」という性質がある。

子供の頃に戻る。少女たちは、わたしだけを輪の外に追いやって、次のジャンケンは何の手を出そうね、と打ち合わせをしていた。

わたしはその様子をじっと見つめていた。

「絶対に裏をかいてやる。そっちの思うままになんかさせない」と思っていた。

その結果、かくれんぼで鬼にならずに済んだ。わたしは一生懸命になって隠れた。

そして、気がついたら、一緒に遊んでいたはずのメンバーが、一人残らず、帰ってしまっていたのである。もしかしたら、そうなるために、わざと、目の前でジャンケンの打ち合わせをして見せたのかもしれない。

2、ただ訳が分からなかった

どうして自分がこんな目に遭わなくちゃいけないのか、まったく分からなかった。無性に腹が立って、悲しくて、たまらなかった。

なんで、なんのために、こんなことをするのか。みんなの気持ちが、何ひとつ、分からなかった。

もしかしたら、理由なんか、なかったのかもしれない。

3、わたしをのけ者にした彼女たちについて

でも、なぜ、わたしは彼女たちと行動を別にしなかったのだろうか。

彼女たちは、いつも、そうして、わたしをのけ者にするわけではなかった。わたしを仲間に入れてくれたとき、わたしは嬉しかった。反対に、ひとりぼっちを実感することは辛かった。

もしかしたら、わたしと一緒に何かをするのも、わたしをのけ者にするのも、どちらも等しく、彼女たちにとっては「遊び」だったのかもしれない。

大人になって、そう思えるようにはなったけど、共感はできない。

まとめ的なこと

あの頃のわたしには、あの狭い世界が「全て」だった。寂しい思いをしても、他の世界を知らなかったから、抜け出すことができずにいた。

もし、「世界はここだけではないのだ。ほかに、自分がいる場所がある」ということが気づけたのなら、話は変わっていたのかもしれない。

でも、子供の行動力には限りがある。だから、今、自分がいる、その場所から抜け出すことは、とても難しい。

ただ、「自分の目の前にあるものが、世界の全てではない」というのは、まぎれもない真実なのだ。辛すぎる現実には、今すぐに、立ち向かわなくったって良い。このことを、できたら、いろんな人に伝えたい。



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