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その心配はどこから来るの?

世界中が新型コロナウィルスへの恐怖で包まれておりますが、私はいま全米で最も感染者数が多いといわれるニューヨーク州に住んでいます。

拙宅はニューヨーク市内から電車で1時間の郊外で庭に鹿や兎が遊びに来るような場所なのですが、ニューヨークということであまり面識のない方にまでご心配のメッセージを頂いております。

実際の私はというと、外出規制が敷かれることで子ども達の学校や習い事の送り迎えから解放され、小鳥のさえずりで目覚めるとテーブルの上には娘の焼いたパンやお菓子が用意されているという、ご心配頂くのが申し訳なくなるような平穏な毎日を送っております。

元来人混みが苦手で単独行動が大好きな引き篭もりタイプ。テレビも殆ど観ないので、料理や読書、趣味に費やせる時間がさらに増えたことに有り難みさえ感じています。

残念なことといえば、春麗らかなこの時期にセントラルパークやボタニカルガーデンの桜を愛でることができないことと、週一の茶道の御稽古がお休みになってしまったことくらいでしょうか。

それでもこの混乱の最中にお茶を点て心と身体を鎮めることができること、自主練習の時間ができたことに感謝しています。

新型コロナで亡くなられた方や最前線で活動されている医療関係者が沢山おられる中、巣篭もり生活を満喫だなんて不謹慎と言われるかもしれません。

しかし世の中に溢れるネガティブな情報に囚われすぎて精神が病んでしまっては、肉体まで病んで結果的に医療関係者の方々の負担を増やしてしまうことになりかねません。

世の中には様々な立場の方がおられ、それぞれが異なる不安や恐怖を抱えておられると思います。

その中でも「目に見えないものへの恐怖」というのは人によって捉え方が大きく異なるものでもあり、海外の状況を心配する日本人もいれば、日本の外出規制が緩いと心配している在外邦人も少なくありません。

これは原発事故の後も感じたことなのですが、目に見えないものへの恐怖を抱えた人間というものは、自分が属さない地域の心配することで自分は大丈夫だと安心したい本能がどこかにあるような気もします。

「心配することが思いやり」だと思っている方は多いかと思いますが、その心がその人が抱えているネガティブなエネルギー「不安」である場合、その「不安」を他者に配ってしまうことで相手に無用なストレスを与えてしまうこともあります。

私は誰かが命の危険に晒されていて助けを求めている時には動きますが、以前ある先生より「相手から求められない限り悩み相談に乗ってはならない」と教えて頂いたこともあり、相手から求められない限り手出しはしないようにしています。

その心配が本当に相手を思ってのものなのか、実は自分自身が抱えている恐怖や不安を誰かと共有したいのではないのか、その心配は相手が求めているものなのか、自問するようにしたいものです。

最後にーー。

「現代人は目に見えない世界を疎かにした結果、放射能やウィルスといった目に見えないものを恐れている」

とあるお茶の先生が仰っていたそうです。

以前「人間の仏性が下がると自然災害や疫病、戦争が起こりやすくなる」ととあるお坊様より伺っていただけに、深く共感しました。

恐れを手放すのは容易なことではないかもしれませんが、今与えられているもの、生かされていることに感謝していると、不思議と恐れや執着はなくなるものです。

身近な家族を二人亡くしているせいか、「人間、死ぬ時は死ぬ。明日死ぬかもしれないのに目に見えないものをひたすら恐れながら生きるなんて勿体ない!今与えられている時間を楽しまないと!限られた人生、満喫しないと損!」とお陰様で図太く生きております。

私は三児の母親ですが、母親の精神状態というのは子どもにも影響しますし、外界との線引きを意識しつつ自分軸でやるべきことに集中したいと思います。


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