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姉が鳥飼茜を選び、弟は浅野いにおを選ぶ、その理由を考える。

漫画家浅野いにお氏と鳥飼茜氏が結婚に至るまでの日々をつづった2冊のエッセイ、浅野いにお著『漫画家入門』、鳥飼茜著『漫画みたいな恋ください』を読んで考えたのは思考の性差だった。(以降は敬称略にて失礼します)

このnoteでは、2冊のエッセイを手に取ったきっけ、内容の簡単なあらすじ、感想、そして、同じくこの2冊を読んだ姉との対話から構成される。

作品について深い考察をする訳ではなく、日記の延長の雑文だと思って気楽に読んで欲しい。おそらく、自分の性格を考えるに、この記事は今の感情の熱が冷めたら、消してしまうように思う。

2冊ともエッセイなので、ネタバレの心配はないと考えているが、気になる人は先に本にあたって欲しい。御二方とも、文体が軽妙洒脱けいみょうしゃだつで、私のnoteより、はるかに読みやすくて興味深いので、是非読んでみてほしい。

もちろん、このnoteを読んだ後でも構わない。可能な限り、ネタバレにならないように、それでありながら2冊の魅力を伝えられるように配慮したつもりだ。

(この記事を消してから1年が経ちました。デデデデ完結を期して、加筆修正して再公開 (22/02/28) します。浅野いにお先生、本当にお疲れ様でした。明日、芸大入試に行ってきます。それが終わったら、デデデデ最終話、丁寧に読ませて頂きます)

エッセイを手に取ったきっかけ

浅野いにお先生、結婚して幸せになるってよ!

2017年10月、浅野いにおは自身の漫画家人生をモチーフに『零落』という1冊の漫画を発表した。

それは、長期連載の終了、編集者である妻との離婚、風俗通いの毎日、Twitterの心無い感想、信頼していた熱烈なファンの裏切り、それでも続く、もう作品を描けなくなってしまった作家としての日常。

そんな浅野いにおの人生の一部を晒して描かれたのは、無理解に対する諦念だった。

現代に生きる我々は、スマホさえあれば、人に見える形で、いとも容易たやすく何か(写真を、ポエムを、猫を、今日の朝食を、あるいは昨日の夕日を)、世に問えるようになってしまった。

こうした経験のある者には、少なからず、いいね or リツイートしてくれる、顔の見えない向こう側の存在を意識する瞬間があるはずだ。

発信する者と、それを受け取る者、その両者の間にまたがる深い谷。その谷底には何があるのか、あるいは。その谷底で何が見つかるのか。

彼の作家人生の全てを捧げて描かれているが故に、強烈な説得力を持って表現されていた。『零落』は無理解に対する諦念ていねんが見事に表現された傑作けっさくだった。

その衝撃的なラスト、まだ続きを見ることができるのではないかと期待を胸に、表題の2冊のエッセイを手に取った覚えがある。

浅野いにお『漫画家入門』
鳥飼茜『漫画みたいな恋ください』

この2冊は、漫画家の浅野いにお(代表作:おやすみプンプン、デットデットデーモンズデデデデストラクション他)と鳥飼茜(代表作:先生の白い嘘、サターンリターン他)が結婚に至るまでの日々をそれぞれの視点でつづったエッセイだった。

というのも2018年9月、ちまたでは電撃的なニュースが流れていた。

漫画家・鳥飼茜氏&浅野いにお氏が結婚 日記連載で“号外”発表

この一報を知って、その刹那に脳内を駆け巡ったのは……半自伝漫画『零落』で離婚し、過去と対峙たいじし、未来に絶望した主人公・深澤 薫(=浅野いにお)がついに結婚か……!(インタビューで、深澤 薫は浅野いにおが風俗に通っていた時に使っていた名前だったと語っていた)

あんな作品を描いて、他者からの無理解と無関心に苦しんでいた浅野いにおに、ようやく、よき理解者(パートナー)が現れたのか、幸せになってくれ……と期待を胸に、どこか安堵あんどしながら記事をよく読むと、どうやら話が違うらしい。

 結婚しよう、そう言われたとき私の返事は本当に? だった。もう何度か期待した挙句に流れたその企画自体への疑いもあったし、何よりも彼氏(=浅野いにお)をとりまく状況が最低だった。もう生きていること自体がつらいとまで言いだしていたのだ。「自分がこの先いつ死んでも財産整理を頼めるように」。想定を超えた、MAX後ろ向きプロポーズだった。

引用 漫画みたいな恋ください 号外:入籍の日 鳥飼茜

衝撃的な、ある意味で浅野いにおらしいプロポーズだが……詳細が気になって、『漫画みたいな恋ください』を購入した。それから1年後に『漫画家入門』が発売となって、こちらも購入した。

綺麗な感想。

『漫画家入門』は、彼のマンガを一度でも手に取ったことのある人ならわかるだろう、どこか末梢まっしょう的に自身を扱う独特な態度が透けたエッセイだった。彼のドライで、合理的で、時に短絡たんらく的にも思える選択を産む思考に、人を魅了させる源泉げんせんを感じた。

私は彼の漫画に対する熱意に、より強く惹かれるようになった。彼の漫画作品以上に、彼の表明する漫画に対する態度が好きになってしまった。正直に告白すれば、この本を通じて、初めて彼を(大)好きになった、と言っていい。

一方で『漫画みたいな恋ください』は、鳥飼茜の心理を反映させた愛憎悲喜交交ひきこもごもなエッセイだった。彼女の思想の根底にある、母と子、女と男、恋人と友人、二項対立の境界を探すような視点が新鮮だった。思考の非連続性と、それをチェーンのように繋ぎ止める感情。理性と感情の不可分な領域が的確に表現されていた。

正直に言って彼女のエッセイは難解だ。

ある特定の男性にしか共感されない表現になってしまうが、それは女性との初対面に、咄嗟とっさに何を言えばいいか分からなくなって、つい「今日は暑いですね」と、しどろもどろな対応になってしまう、あのような現象と同質の難解さを孕んでいた。

男からすれば、ともすれば乙女心と呼ばれる複雑怪奇なシステムが、あまりにも繊細で緻密に稼働しているのだ。

こうして2冊のエッセイを俯瞰してみると、同じ時間を共有しながらも、全く違う思考が、全く別の解釈を生む、男女の思考のプロセスの違いを突いているように感じられた。

邪な感想。

次に、よこしまな感想を言おう、言いたい。
まずはこれを読んでみて欲しい

 6月3日
彼女と喧嘩をした。
今回は僕が理詰めで追い込みすぎてしまったせいか、彼女が「洗脳されてるみたい」と言い出した。たしかに言われてみると、追い詰めた後に受け入れ、そして許すという今回の喧嘩の流れは洗脳のプロセスと同じだ。あまり良くないやり方だなと思った。教習所を終えたお祝いにケーキを買ってきてくれたのに、結局食べなかった。

引用 『漫画家入門』浅野いにお P,16

教習所に通う話(しかもその話は面白い)を何十ページもかけてする男=浅野いにおの、喧嘩した日の日記は、たったの7行だった。一方の鳥飼茜の日記は70行を超える。もう、この時点で面白い。その一部を抜粋して紹介する。

 私のことをお姫様みたいと彼は言った。 どこかに行くのにも誘われるのを待ち、誘ってくれないと不機嫌になって機嫌を取られるのを待つ私は、ちやほやされたがりのお姫様みたいだと。 (中略) 私は相手が何かしてくれるのを待っているだけで、でも自分ばかりが何かをしてあげてる気持ちでいて、そんな自分のことを可哀想に思っていて、だから不満が尽きないんだと彼が言った。 一方的な感情と、それを言い訳するように取ってつけて見せたような卑屈さ。それが私の日記を通して彼が感じたことだという。 不満が尽きないから我慢していることを察してもらおうというのが伝わって、それが相手をうんざりさせるんだって。 そうやって理屈で説明されると自分の悪いところがありありと目で見えるようだった。

引用 『漫画みたいな恋ください』鳥飼茜 P, 136-137

この2冊を読んで思い知ったのは、思考の性差だった。両者を比べれば、確実に浅野いにおに、私の思考のプロシージャは近い。

というのも『漫画家入門』は、一応のゴールを目指して描かれている。日々の瑣末さまつな出来事を記しながら、最後には浅野いにおの考える漫画哲学を読者に語りかけて終える。何某なにがしかの起承転結が起こり、読者には何かを得たような充足感と共に、最後のページを閉じる赦しを、あるいは安息を与えてくれる。

一方の『漫画みたいな恋ください』は、人生のいっとき、その瞬間を切り取った記録。分かり易い結末、読者に対する配慮、そうした一切は用意されていなかった。無秩序な思考と感情を、丁寧ていねいに、冷静に、それでいてカオスのまま出力された保管装置に見えた。

私の汚い感想は、まさにここにある。感情に振り回されて、手に負えない心を持て余す鳥飼茜。おのれの言動を客体から見つめ、冷静に分析する浅野いにお。

私は神的な、上位な視点から両者を比べて、後者の方が自分の在り方に近いと悦に浸って、さらには安堵すらしていた。

私は、鳥飼茜のようにパッションの強い人間ではなく、浅野いにおのようにクールな人間でありたいと思考した。我ながら、ずいぶん傲慢ごうまんな姿勢だと思う。

共犯者に姉を選ぶ

罪悪感が生まれた。

この2冊の手にしたとき、この本を、まるで男女の性差を調べる為に用意されたモルモットの実験レポートのように扱ってしまった。精神の差異をつまびらかに比較対象するような読み方をしてしまった。

浅野いにお先生や鳥飼茜先生の人生にあれこれ講釈を垂れる資格なんて、(当たり前だが)毛ほども、これっぽっちも、さらさらないのに、つい、喚起されてしまうのだ。

彼はあの時こうすれば、彼女はあの時ああすれば良かったのでは、とつい考えを巡らせてしまう。

これを読んだ人は、浅野いにお、鳥飼茜、どちらに共感するのか、そしてそのどちらを応援したくなるのか、それは何故なのか、誰かと語り合いたい、そう思ってしまった。

そして、共犯者に姉を選んだ。

(……姉以外に読書する女性の知人がいなかった)

大学では心理学を専攻していて、今はシステムエンジニアとなった姉を考えると、間違いなく私の感想に共感してくれるだろうと心の何処どこかで期待していた。(姉は普段あまり漫画を読まず、小説を広く浅く読む。浅野いにおと鳥飼茜の著作もこれが初めてとなる)

その結果は、実に意外なものだった。

「浅野いにおのエッセイ、クソ程つまらんわ、世界を逆さまに見ているオレ様に酔いしれてるしょうもない男の日常を眺めて何がオモロイのか」

「お前は乙女心を何も分かってないんだな。女はシンデレラストーリーを求めてるんだよ。起承転結? 女は最後に男とくっついて、未来への幸福の予感を残せば、それが綺麗な終わり方なんだ」

「感情を吐き出すことを恥ずかしがるよね。格好つけて着飾たり、嘲笑を求めて道化に徹するのが好きだよね、男って。そういうのが時々、女々しく見えるんだよね、お前みたいに」

「だいたい、浅野いにおは鳥飼茜に説教垂れるくせに、女性についてまるで表層的な部分しか表現しない。女って生き物は面白いのに、その面白さを正面から描こうとしないのが腹立たしいね。浅野いにおが描く鳥飼茜は、彼の欲望と発見を与えるための装置としてしか機能していないじゃないか。これじゃ、単に彼の孤高なダンディズムに終わってしまう。鳥飼茜の描く浅野いにおは、こんなにも精細を放っているのに、浅野いにおの描く鳥飼茜はなんの魅力もないじゃないか」

姉は、浅野いにおのエッセイと、浅野いにおのエッセイをたたえる私に、辛辣しんらつだった。

家族の中で姉は、天真爛漫てんしんらんまんな母とは対照的に、計算高く、仕事人間で、フェミニンな部分から最も縁遠いところにある女性だと知っていたので、理論で整頓せいとんされた客体として己れの思考を描く『漫画家入門』の方に共感するに違いないと予想していた。

そして、その予想は見事に裏切られた訳だ。

この本を通じて得た私の推論を見透かして、姉は指摘した。

エッセイを読んでダンディズムに酔う弟のカッコ悪さ

一つは、理性的な男性というダンディズムに酔ってる弟はカッコ悪い、という指摘。

「お前は理性的な男性と感情的(あるいは一部の男性はそれを情緒的と表現する)な女性を比べて、前者であることに安堵したのかもしれないけれど、それは単に感情的な女性からの逃避の言い訳に、この本を利用しているに過ぎないし、感情的な人間だけが特別に何か劣っているという見方も相当に狭量きょうりょうだからね」

「人間は本質的に感情に生きる動物だよ、理性はあとから付いてくる解釈にすぎないからさ。そういった意味では、感情は本質により近くて、一方で理性は再現性を獲得していると言える。両者にはロスとベネフィットが双方にあって、比べてどちらが優れているか、とか、そういう問題じゃないのよ」

「そもそも前提として感情と理性が二項対立的に捉える発想が、そのしゅのプラトンの妄想に釣られてるって言えるかもね。人は、感情を伝達する脳の機能が停止するとどうなると思う? 従来の哲学は「冷静で合理的な行為者」となると考えてきた。けど実際には違ったのさ。感情を持たず何も決断を下せない人間になってしまう。それが鼻の穴から鉄のスプーンを突き刺してき混ぜた結果分かった、脳科学の知見だよ。感情が意思決定をする。理性と呼ばれる幻想は、それを行動に移すためのプロセスに過ぎない」

「多くの男性がそう観測されるように、感情と理性をスイッチのように切り替えられる人間もいれば、多くの女性がそう観測されるように、感情と理性の境界がグラデーションな人間もいる。男性の思考はシーケンシャルだけど、女性の思考はランダムリード、なんてよく言うじゃない? これは持論だけどね、前者は感情を理性という別のプロトコルで解体、再構築している「ように見える」人間で、後者はそもそも感情と理性が分割不可能で繋ぎ目のないシームレスなプロセスを経ている「ように見える」人間だと、私は捉えているよ」

「だから、別の要件定義で組まれたシステムが後になって理性やら感情やら同一の規格で繋げるのには構造的に無理があるのさ」

私はこれに反駁はんばくした。では、どうすれば、男女間で情報(感情)を交換できるというのか。と言うのも、その持論が正しければ、女である姉と、男である私が、こうして理性的に会話している前提がおかしくなる。

「男が女に歩み寄るか、女が男に歩み寄るか。前者は感情に寄り添い、後者は時間が解決する、と私は考えている」

「今だってそうだよ。私はお前と、こうして理性的に会話しているけれど、同時に理性的に話をしなければならないという制約に窮屈な思いをしているのも事実だ。これが女性同士であれば、よりプリミティブな表現で、さらにインスタントに情報を互いに交換できるのにって思いは当然ある」

「こう言うと伝えるべき重要な要素が削がれていく気がするけれど、それでも要約して言えば、感情で対話するというのは、相手の気持ちに寄り添って行動することだよ。浅野いにおにはこれができていないから(姉を含む一部の)女性読者は反発する。どこだったか「奥さんじゃなくて友達になりたいの?」(『漫画家入門』P, 185)と問いかけるシーンがあるだろう。あれは最悪だね。答えは、「ただ一人の女でありたい」だ」

「そんなものは無理だろう、と笑うか? けどね、少なくとも、うちの父親はその努力をしていたよ。うちの母親は、ゴルフで若くて可愛いキャディをつけようが、バニーガールがサーブしてくれる会員制の高級レストランに接待されたことを自慢しようが、女性秘書からワザとらしいプレゼントを貰ってこようが、文句一つ言わなかっただろう? それは夫婦の間で感情的な整理がされていたからだ。父は母に、「この人のただ一人の女だ」というアイデンティティを築けるように常に振る舞っていたし、母に、それ以外の女性より大事にされていると思えるような演出することを怠らなかった」

「例えば私の夫婦観は、私が働きたいから、今の旦那に父のように稼いできて欲しいとは望まない。その代わりに家事や育児は分担している。私は旦那に育児の一部を任せられるぐらい信頼しているし、その信頼関係と、絆のようなものが私を妻としてのアイデンティティを確立している」

「ただ、浅野いにおの行動が示す友達と妻の境界は、ただのペラ紙一枚の違いでしかない、ように読者からは見えてしまう。女友達(アシスタント)も半ば同棲し、鳥飼茜も同棲。絆が薄い、信頼関係もない、感情の拠り所となるものがなければ、そりゃ鳥飼茜もフラストレーションを溜めるだろうさ」

「鳥飼茜には浅野いにおの妻となる蓋然性がない。個人的な感想を言えば、浅野いにおが、漫画を理由に、(ともに漫画に同じものを求める同志としての夫婦観を理想として)好き勝手に古典的な夫婦観の改革を試みるのは否定しないが、そこに鳥飼茜を妻たらしめる役割を用意せずに、惚れたのはそちらだと居直られるのは承伏しょうふくできないな」

「既存の夫婦観からの離脱をいるからには、まず先に新しいスタイルを提示するのがその責務だろうさ。夫婦で一緒に探して行こう、というスタンスはていの良い言い訳に聞こえる。改革を求めるのなら、提案者がプランを提示するのが私の世界の常識だ。要件だけ提示して、後は任せた、とされて、鳥飼茜は困っているように見えた」

「結局、浅野いにおが感情で対話することが出来ないからこそ、鳥飼茜は非選択的に女が男に歩み寄るコミュニケーションを選択したように読める。感情が理性に置換されるまで遅延のあるコミュニケーション、つまりは、別居さ」

「感情は熱を持つ、冷ませば理性的になる。そうすれば互いに、情報を交換できるだろ。つまり結末的には、仕事と家庭を分離させるという古典的なスタイルに落ち着いたことになる」

「もともと、夫婦というのは女性が譲歩するようにできているのさ。ある感情的な出来事が起きた時に、その感情をすぐにロジカルに整理できるのは男性だ。女性はその起源を感情的に対処しようとするようにプログラミングされている。その出来事が過ぎ去って全ての感情を喪失した時に、初めてロジカルな思考を開始するのさ。だから時間が必要と表現した」

「もちろんこれには性差以上の個体差があって、私のように一見してロジカルに擬態することもできるけどね。例えばクラスで男子のお前より足の速い女子はいただろう? だがアベレージは女子より男子の方が速い、分布が足の速い方の男に寄るからさ」

「私とお前が理性的に会話できるのは、ただ私が感情的な生き物である女性の中では、割合、理性的な人間だったからだよ。傾向を普遍化した議論をしてるからね。私のサンプル1つ、じゃあまり意味がない」

姉は男女の恋愛の非対称性に苛立っているのだろうか? 

姉がより共感すると選んだ鳥飼茜の『漫画みたいな恋ください』には、根底に男女の恋愛の非対称性、無理解に対する怒りや不甲斐ふがいなさがふつふつと渦巻いていて、男である私の読者体験は、そのカルマの上みだけをすくってめるに留まって、その奥底に眠るサムシングに触れて、それが何であるかを解体するまでは至らなかった。

あるいは、姉には違って見えたのだろうか。

「いいや。男性が感情で対話できないのは当然だよ。そういう風にプログラミングされていないからね。浅野いにおのつまらなさは、女性が理性ではなく感情での対話を求める(傾向がある)生き物だと理解するだけの知性がありながら、理性で畳みかけるところだね。品がない。感情を前に百の理論を並べたてても、空虚くうきょなのは自明だろう。猫にマテやオテができないと叱る姿は滑稽こっけいだろう? 相手している動物は犬ではなく猫なんだ、と口を挟みたくもなるさ」

「これは私の旗幟(きし)を表明する為に言うけれど。感情的な女性に対して、やれやれと無気力に振る舞う姿勢こそが、彼の描くダンディズムの演出の一部になっているのがしゃくさわるんだよ。理性的な文章で高尚こうしょうな漫画論を語って、漫画家としての浅野いにお像をセルフプロデュースするのはおおいに結構だけど、その装置に鳥飼茜が利用されるのは女の立場として賛同できないな。意識的か、あるいは無意識かは判別がつかないけれど」

「私には、はっきり言って非常識な彼の女性に対する扱いを、漫画論を盾に、その正当性を説いている姿勢が、読者を誘引しているように感じられて、好きになれない。ならいっそ、開き直って、私はダメ男ですと主張する男の方が、まだある種の清々しさがあって、ロックだと思う。そういうフラストレーションの累積るいせきがエッセイを読むの中で鋳造ちゅうぞうされて、私の浅野いにお像に対する失望は、だからそこから来るのだと思う。彼の漫画は一冊も読んだことがないから、彼の漫画論が、いかに尊いモノなのか知らない、というのもあるんだろうけどさ。」

「これは余談だけど。私も結婚して旦那と共同生活をして、子供が産まれて思ったんだけど。浅野いにお、鳥飼茜に限らず、もともと男女の恋愛は、非対称性を持つのが自然なんだよ。そこに平等やら、対称性やら言い出すからおかしくなる。ここ数十年で出来上がった現代の価値観なんて原始的な人間の構造を無視した非自然的なものだから、それに従うには人間が人間のままではいられなくなる。もし、女が真に男と対等に感情で対話できるようになるとすれば、それは子宮の消滅とセットだろう。彼も、彼女も皆、人類は神の設計ミスの被害者だと思うようにしていなきゃやってられない」

「冷静に考えてみてくれよ、女は月に一度のサイクルで体温の変わる変温動物のようなものさ。生理は常に新しい生命を子宮に宿す準備をするという意味ではもっとも合理的に設計されているのだろうけれど、24時間365日、均一で連続した思考を保ち続けるのはあまりにも不向きだ」

「男だって体温が1度上昇したら、まともな思考でいられないことぐらい想像できるだろう? 女性の料理人が少ないのは、生理によってホルモンバランスが崩れて、味覚が均一にならないからだ。旦那に料理を指摘されて知ったけど、生理の時、私は甘味と酸味が分からなくなる。だからさ、常に一定な同じ味の料理を提供するには不向きなんだよ、女は」

「そういう別の機構を持つ生物が、全く同じ思考であろうとするなんて土台、無理だろう? だから、現実的な男女同権の行き着く先は、性別の消失だと私は思うのよ。まず、試験管ベイビーと、遺伝子操作で生殖器を消失させないと無理だろうさ。男に子宮がなければ、女から子宮を取り外して、外部リソースを頼ればいい。けど、それって今の人間とは別の生物だろう? もちろんこれを本気で望んでいる訳じゃないけどさ。ただ、この考え方は、お互いにとってもっとも合理的なんだ。子どもを作るのに、女だけ休職しなきゃいけないなんて馬鹿馬鹿しいじゃないか、私だって働いて出世したいのに」

「話がだいぶ脱線したけれど、理性と感情どちらのプロトコルが最適かを思考した時点で、すでに理性的な視点から認識している。感情的な視点を持てなくても、そういう自覚は持った方がいい。私は、弟であるお前に、思弁的であることを女性に強要するような人間になって欲しくない。特にお前はそういう風になりそうだから」

「最後に一つだけ、浅野いにおに共感したところがあったのよ。「自分がこの先いつ死んでも財産整理を頼めるように」ってところ。時々訪れる、ひとりじゃどうしようもなく乗り越えられない、絶望をふたりで分かち合うために、日々のマイナスを受け入れるって私には読めてね。夫婦は、どう取りつくろっても、ひとりで生きていくことへの諦めと妥協の産物なのよ」

姉にこんな哲学があるとは知らなかった私は、ただただ圧倒される他になかった。自分の考えのり所をさらしたようで、とても恥ずかしかったし、それを見透かす歳の離れた姉に畏怖いふを覚えた。

それでも浅野いにおのエッセイは格好いいと言いたい

確かに感情を、感情のまま言葉に乗せるのは難しい、私には到底、鳥飼茜のような文章を紡ぐことはできない。過度な一般化であるのは重々承知だが、男にそれができないのは、それは社会に対して格好をつけないと生きていけない男という生き物のさがのようにも思えてしまう。

赤裸々に感情を晒すことへの気恥ずかしさと、その抵抗をダンディズムとしょうして取りつくろうことのみっともなさ、恥ずかしい失態もある種の教訓のように振る舞って、哲学を語る。そういうスタンスでしか己れを表現できない。

(現に、このnoteがそうである。ゆうに1万時を超える文字を使って、もっともらしく書いているが、実態は、ただ歳の離れた姉に、本の感想を巡って言い負かされた、それだけである)

そういう態度を、姉は女々めめしい、不甲斐ふがいないと見たわけだ。

それでも、浅野いにおはカッコいいのだ、と私は主張したい。

だって、世の多くの男は、彼のように、そのポーズ、格好をつけることすらままならないじゃないか、 と思ってしまうのだ。

結論、私は、浅野いにお、になりたいのだ。

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