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No.114「2回目の人生」フジヤ酒店の思い出(2)愛すべき人たちよ!

前書き:「人生20年4回」

高校生の頃だったろうか、自分の思いつきだったとは思えない。おそらく誰かから聞いた言葉を軽い気持ちで、深く考えずに、頂いたのだろう。「平均寿命が80歳と考えて、40年の人生を2回生きる」この言葉の中の2回の人生は「同じような人生2回」の意味合いはないであろう。言外に含まれる真意は「色合いの違う人生2回」であろうと解釈して、そんな人生良さそうだなと心の片隅に引っ掛かった。

「40年人生2回」を思っていたところに、数学者でエッセイストの森毅さんが「人生20年4回」説を唱え始めた。変化が多い分こちらの方がいいなと、軽率に宗旨替えだ。この説を聞いた時がちょうど40歳になる直前だったし、そこまでの自分の人生も、それからの人生も20年4回の方が当てはまりそうだった。

20歳までが故郷福島県いわき市での家族や友人たちとの生活、20歳からの連れ合い由理くんとの酒屋商売が2回目の人生、38歳から四年間の大学生時代を挟み、3回目の人生学習塾時代は、いつの間にか酒屋稼業の長さを超えた。4回目の人生は、時系列的には、既に入っていると言える。時間的な「ここ」からは、場所的な「ここ」にはまだ記せない。

今は、何も生活を変えることだけが「変化」とは思わない。気持ちが変われば生活が変わらなくても「新たな20年」と言える。例えて言えば、20歳前後に会社に勤め始めた方が、40歳辺りでそこまでを振り返り、やはり続けようと決め、新たな気持ちでその仕事を継続すれば、この間「20年の人生を2回」生きたと言える。

さて、僕の「2回目の人生・およそ20歳からおよそ40歳」の話だ。この間の英語への取り組みなどは書き連ねてきたが、連れ合いの由理くんと共に過ごした酒屋商売の話はあまり触れてこなかった。自分の情けない話もあるし、酒屋組合と上手く付き合えなかった話もある。もちろんと言うか、僕の書くことだ、人との触れ合いの話になるだろう。他の記事同様、これから気ままに書いていこう。

長い前書きになってしまった。ここには「No.021 フジヤ酒店の思い出(1)内山さん」を元に大幅に書き足して、タイトルも変えて掲載する。

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No.114「2回目の人生」フジヤ酒店の思い出(2)愛すべき人たちよ!

昭和40年代以降の昭和、高度成長とその余韻も残る頃の話です。店内の小さなスペースで、コップ酒を提供する酒屋は、普通と言っても良かったと思います。酒屋にとっては利益率のいい方法でした。うちでは「立ち飲み」と言ってました。「もっきり」「角打ち」…いろいろな言い方があるようです。

僕が経営していたフジヤ酒店の左手店頭には、お酒の自動販売機が二台、間をおいて置かれ、その間を人一人、体を横にして入ると、テーブルがあります。隠れ家に入るような雰囲気がありました。小さなシンクのそばに、一合(180ml)コップが6個ほど置かれています。乾き物のおつまみも見えます。値段表が貼られていて、上から一級酒・二級酒・合成酒・焼酎・ウイスキーと書かれています。

以前、清酒は一級酒・二級酒との区別があったのです。四人も入ればいっぱいの広さです。老若男女の「女」がない世界でした。このスペースに来られる方たちは。職人さんや、近所の中小企業で働いている方が多かったです。いわゆる社会的地位が高い方は稀でした。酒に酔って喧嘩をしたりとかの話は全くありませんでした。みんな、本当に愛すべき人たちでした。

お酒をたしなまない僕にとっては、信じられない飲み方をするお客さんも多かったです。コップいっぱいの二級酒を、今で言う一気飲みです。25度の焼酎でもクッと飲み、スッと帰っていく。注文とそれを受けるだけの会話、挨拶も最低限「どうも」「ありがと」くらいでしたか。仕事の途中に来るお客さん。一日何回も来る方。大きな病院、都立豊島病院が近くにあり、入院中の方も飲みに来ました。ホントはダメでしょうね。

暑がりの僕は、秋口まで、酒のメーカーからもらったロゴ付きのTシャツ一枚にジーンズ、スニーカーにエプロンの格好です。冬には、これもサントリーなどのロゴ入りのジャンパーを羽織り、重いビールケースも軽々と運ぶバリバリの肉体労働者でした。メガネっ子の由理くんは割烹着を上からかぶり、大好きだった赤い口紅だけで後はスッピン、ファンデーションがいらないくらいの肌美人です。立ち飲みに来る人たちは、僕よりも由理くんにお酒をついでもらいたかった、かもです。

親しくなって話しをしていくお客さんも多かったです。本人の前では名字で呼ぶ事がほとんどでしたが、連れ合いの由理くんとの間であだ名をつけて楽しんでいました。ひどいですね。「現代の学生」ハタケヤマさん。酔ってお店に来たときに「オレたちゃ現代の学生だ〜」と言った後につけました。クーラーがまだあまり普及していなくて、お店にもありませんでした。「現代の学生」は夏の暑い時には、パンツ一丁で買い物に来るのです。逮捕されかねません。今では信じられないですね。

「美と健康」口癖が「美と健康が大事だよ」のミヤワキさん。最初出会った頃、ミヤワキさんは自分のトラックで産業廃棄物の仕事を請け負っていました。その後、足場を組む仕事などもしたりしました。東京の道路事情に疎かった僕に、ミヤワキさんは商品の仕入れに付き合ってくれたりもしてくれました。本当に気持ちの良い人で、お世話になりっぱなしでした。最も親しくなった人でした。「夢の島」に連れていってもらった話は、No.087に書いています。若い頃に解体の仕事でアスベストの粉塵を吸っていたことが原因の一つで、2012年に亡くなりました。病院によくお見舞いに行き、身内のように思っていましたので、亡くなったときは涙が出て止まりませんでした。

ハラダさんのあだ名は「サケーノ・チィンチェーノ」小さめのコップもあり「酒の小さいの」と注文するのですが、滑舌が良くないと言うか、独特の口調でしたので、イタリア語に引っかけて命名しました。あるとき、話の流れで娘さんの話になりました。それまでハラダさんは独身と思っていました。別れた奥さんとの関係などを嘆きました。それを聞いていた由理くんが、腕を組みながら、ハラダさんに厳しくも優しくも親身になって、自分の考えを熱く語りました。元気を取り戻したハラダさんは、由理くんのアドバイスをヒントに別れた奥さんとよりを戻しました。家庭を再構築したハラダさんは引っ越していきました。元気でいるのかなあ。

「ヘナ内さん」体の動かし方が前かがみで、ヘナっとした感じと苗字の内山さんにかけたあだ名でした。仕事の帰りに時々寄っていただきました。内山さんは僕よりも10歳くらい年上です。当時、近所には小さな製本工場が結構ありました。従業員は5・6人ほどだったでしょうか。内山さんは、お兄さんの経営していた製本工場で働いていました。由理くんが「内山さん」と言わずに、間違って「ヘナ内さん」と繰り返しても、気にもかけていないのか、会話が続き、笑いをこらえたことも良き思い出です。

僕の趣味の一つがマジックです。大学浪人時代に、日本橋三越のマジック売り場で実演販売をしていました。歴代のアルバイトで抜群の売り上げでした。今でも自慢しています。「今や有名プロの・・・さんよりオレの方が遥かに売り上げが良かった」と。

気が向いたとき、立ち飲みのお客さん相手に、簡単なマジックをする事がありました。マジックバーのはしりのような事をしていたのですね。内山さんは、かなり「食いつき」のよいお客さんでした。「いや〜、面白いねえ〜」ちょっと体を前に倒しながら、ヘナっと言います。「自分も、ちょっとしたいなあ〜。教えてもらえないかなあ〜」

お店の終了後、夜の10時過ぎから、週に一二度トランプや小さなものを使って演じるクロースアップマジックを教えました。お金はいただきませんでした。「生徒」の内山さんより「先生」の僕の方がずっと楽しんでいる感じでした。今に通じている感覚です。結構本格的なものも教えました。「小野マジック教室」は一年以上続きました。「いや〜、小野さんありがとうね〜。一生の趣味になったよ〜」ヘナっと言ってくれています、今も。

酒屋商売から転身、38歳で大学入学、卒業後、塾を始めることになったとき、内山さんが言ってくれました。「小野さん、塾って紙をたくさん使うんじゃない?工場(こうば)で、余り紙が出るから、好きなサイズに切って持ってきてやるよ」大量の手作りのA4やB5サイズの紙を持ってきてくれて、置き場所を作るのに一苦労したほどでした。

塾を始めて10年間、内山さんが退職するまで、問題をプリントする紙を購入する事はありませんでした。買ったらかなりの金額になるでしょう。マジックの教授料金を遥かに超えることは間違いありません。ここでは、お金の話はヤボですね。

生徒が言いました。「ここの紙って、いろんな色だったり、紙の質が違うよね?」
にっこり笑って答えます。
「素敵だろ?」

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