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No.173 小説「ムメとユウ子」下書き・磐崎屋その2

No.173 小説「ムメとユウ子」下書き・磐崎屋その2

(一応、No.171の続きです)

ムメの足の指にひっかかっていたわら草履の鼻緒が切れそうだった。今朝早く山形の谷地の村を出る時におかっつあんが持たせてくれた三足のわら草履の最後の一足だった。はじめの一足は村を出て途中の山道でへたった。もう一足は福島までは何とかもちこたえた。最上婆のトメに、磐崎屋さんに入るのに少しはマシな草履にしろと言われ最後の一足に履き替えた。念のためにと捨てずにおいた一足がムメの帯の背中のところに挟まっていた。

薄っぺらいわら草履の下から、土間の冷たさが忍び寄る。両の踵を、隙間風だかが後ろからすっと吹きつけてムメは思った。「福島の浜通りはあったけえぞって言われたんけど、山形の村より風は冷てえなあ」太陽さんや雲さんが生み出す暖かさや寒さとか、お月さんが出た時の仄かな明るさとか、風さんが運んでくる爽やかさや冷たい意地悪さとかに、そんなものには自分の気持ちを表してもいい。けど、おとっつあんやおかっつあんを初め、大人たちに自分の気持ちは、何でだかはっきり分かんねけど、言っちゃいけない。大人の言うことには従わなくちゃいけない、悲しんだって何も変わんね。最上婆トメの隣に立つムメは、六歳までにそんな考えを、既に身につけていた。

土間の向こうの一段高くなっている畳の部屋は広々として、十数畳はあろうかと思われた。霜月(11月)に入ったばかりだったが火鉢の上の土瓶の口から湯気が出ていた。高い天井から二つの電気傘が吊り下ろされ、ムメが見たことのない明るさに傘が光っている。

ムメの目の前に立つ髪を短くした女は大きく若く見えた。火鉢の前の女は、座っているせいか、暗めの着物を着ているためか、いっそう小柄に見え、白髪混じりの髪が仁王立ちの女よりもずっと年を重ねたことを物語っていた。年かさの女の隣にちょこんと座る女の子の色の白さは、電気の黄色い明るさを跳ね返していた。

仁王立ちの大柄な女の見下ろす目からの、小柄な白髪混じりの女の真っ直ぐに向かってくる目からの、色白の女の子のちょっと横を向いた釣り上がった目からの、横に立つ最上婆トメの下を向く目からの、四人の視線を同時に受けて、ムメは思わず、両足の指を土間の土に食い込ませるように踏ん張り、両手の親指を他の指で握りしめた。

「ほら、ムメ。イワザッキャさんに挨拶しねえと」最上婆トメの声が右の上から降ってきた。イワザッキャ、さん?人の名前じゃないよな。三日前に『オノさん』とこに奉公入んだって、おとっつあん言ってくれた。この立っている女の人に言えばいいのかな。ムメが口を開こうとすると、後ろに引き戸が開けられる音がして、がさついた男の声が耳に届いた。
「旦那さん、風呂沸かす木、切っときました」
大柄な女が答える。「太吉、今日もご苦労さま。『蔵の人』たちもじきに来るので、明日もよろしくな」
「へえ、分かりました。シゲ旦那さん、この子が新しい子ですか?」
「そうじゃ、明日から色々教えてな、太吉」
太吉と呼ばれていた男が引き戸を開けて出て行った。いっそう冷たい風が、ムメの足首に届いた。あの人、この女の人を「シゲダンナさん」って呼んでたな。「シゲ、この女の人って『シゲ』って言うんだ。でも、福島では女の人を『旦那さん」て呼ぶのかな?」

「ほれ、挨拶せんと」再び最上婆トメの声が振り降りてきた。
「遠藤、ムメ、です」名前を言うのが精一杯だった。

「ムメか。呼びづらいのお。うちにはウメって住み込みの女中もおって紛らわしいわ。お前は器量も良くないしオタフクだのお。今からお前は『オタ』じゃ」

大正14年(1925年)11月2日『ムメ』が磐崎屋で『オタ』になった日、海岸に面した街小名浜に冬の到来が近いことを知らせる風が吹いていた。

・・・続く

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