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No.171 小説「ムメとユウ子」下書き・磐崎屋その1

No.171 小説「ムメとユウ子」下書き・磐崎屋その1

東北地方の最南端福島県の東、太平洋側にいわき市小名浜は位置する。町の大通り「本町通り」と呼ばれる道と、いわき市の中心地平(たいら)と小名浜海岸を結ぶ「鹿島街道」の交差点に「磐崎屋」は位置している。海岸地域であるこのいわき市小名浜地区に、何らかの理由があって「磐崎屋」の先祖が独りであるいは家族と共に、山間の地域かつての磐前群磐崎村辺りから引っ越してきたのは、江戸時代の中期以降と思われる。磐崎村は、現在「スパリゾートハワイアンズ(旧・常磐ハワイアンセンター)」の辺りであると言えば、地元の人のみならず見当のつく方もいると思われる。

いつの頃から、そして誰が「磐崎屋」を名乗ったのかは定かではない。江戸時代の中期享保年間(西暦1716年〜1736年)くらいから酒造業を営んでいたようである。酒作りには、大量の米と水と人手が必要であり、当然広い土地も入用であった。労働人口が農業に占める割合の多い時代、すなわち日本が「工業国家」として確立する以前の社会において、米を原料とする酒造業は、多くの地方において主要産業「大企業」の体をなしていて、昭和初期の頃まで継続していたと言える。

米を原料とする「酒」の歴史は、人々が定住して農耕を営み始めた古代社会にまで遡ることができる。

日本の歴史区分で言うところの、古代社会(大和・飛鳥・奈良・平安時代)においては、酒は権力者への献上物の意味合いもあったと「古事記」や各地の「風土記」などに記されているそうだ。平安時代の朝廷には、酒を造る役所もあったことから、酒の社会的地位は高かったと言える。言葉を変えれば「酒・アルコール」が持つ「血中に溶け込み脳を麻痺させる」特殊性ゆえ、いつの時代にも、取り扱いが容易でない部分があると言うことか。

商業が盛んになり、貨幣経済が定着していく鎌倉・室町・安土桃山時代には、酒は米と同様に経済価値を持つ「商品」となり、京都を中心に「酒蔵・酒屋」が出現する。当然のように酒造技術も上がっていき、貴族や武士などの特権階級のものから、庶民へと普及していくに伴い、現在の税金にあたる「運上金」として、時の権力階級の歳入の大きな基盤の一つとなっていく。

「酒」に対するこの考えと、国家運営の上で歳入の大きな柱となっていたのは、幕藩体制をとっていた江戸時代も変わらない。そして、明治・大正時代を通し戦後に至るまで「酒税」の歳入面での地位は揺るがなかった。

酒類醸造及び酒類販売が他の業態と異なっているのは、「酒」すなわちアルコール飲料の特殊性ゆえ、製造及び販売の『免許』が、洋の東西を問わず国家によって統制されることであり『免許』は国家の『税収入』に繋がる。

現在、日本の税収の多くを占めるのは所得税や法人税などの直接税、そして1989年(平成元年)に導入された間接税の一つ消費税である。今や国税収入の4%に満たない酒税であるが、1950年には18.5%を占め、1935年に所得税に抜かれるまで、長く国税収入のトップであった。

「磐崎屋」を語るには「酒」の歴史の他に、日本の土地制度、特に江戸時代以降の「地主」の歴史にも触れておかねばならない。

江戸幕府の土地制度は、安土桃山時代に豊臣秀吉が行った太閤検地を基にしたものと言えた。土地の耕作者を所有者として登録して「年貢」を負担させた。そして、明治時代の「地租改正」によって、土地の私的所有権が確立され「地主」が生まれ、国家権力「お上」による徴収が、江戸時代の米による「年貢」から、近代の現金による「税金」と変わった。

地価の3%の税金は高額であり、多くの農民は土地を売らざるを得なくなった。江戸時代より続く「酒蔵・酒屋」は、当時日本各地の地域社会において中心的役割を担っている側面もあり、農民より土地を購入し「地主」となったものも多い。おそらく「磐崎屋」もこうして小名浜地区の土地の三分の一を所有する「大地主」となったと思われる。

結果として税金を負担したが、農地の所有者となった地主は小作人に土地を貸し、農作物の一部を小作料として徴収する仕組みが形成された。社会が大きく変化するときに貧富の差が生まれやすくなるのは歴史が語っている。こうして力を持った全国各地の地主たちは商工業に投資したり、地方政治の一端を担ったりしていく。

この地主制度が崩れるのは、第二次世界大戦後1946年よりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が執行した「農地改革」に因る。地主たちから所有地を買い上げ、小作人に安価に売り渡し、土地代は10年換金できない国債で支払われた。その国債は戦後のインフレで価値がほとんどなくなり、地主の多くが没落したり、所有地の多くを失った。

土地は小作人に安価で払い下げられたため、自作農が増えた一方で、払い下げられた農地を売り農業をやめるものも少なくなかった。「農地改革」は、戦前の地主が軍部の経済基盤の一部を担ったと判断したGHQによって遂行された政策であった。また地主制が共産主義の思想に通じるものがあったのも一因との指摘は、東西冷戦が始まり、共産主義の拡散が世界に広まった背景を考えれば納得できる。

「地主」と一言で言っても、時代や地域により様相はさまざまなのは言うまでもない。「農地改革」によって「磐崎屋」も多くの農地を没収され、酒造りのための米を全て自前で賄うことはできなくなったが、農地でない土地、自宅とその周辺地、酒造業のための土地や山間部の所有地などは没収されずに残った。

磐崎屋の母屋は、敷地約1000坪(約3300㎡)の中の北西部に建っていた。現在の和洋折衷の家の間取りと違いはあるが、母屋の部屋数は一階8部屋、風呂手洗いの他に土間なども備え、二階には廊下に囲まれた2部屋がある無駄に広い家だった。

敷地内には酒造場に繋がる大谷石造りの蔵と、住まいの家に繋がる石蔵があり、精米所や、何に使っていたのか謎の建物がいくつかと、雨露をしのぐ屋根ばかりで扉もない小屋とも言えないものもいくつかあった。

イチジクの木が二本、柿の木も二本、ザクロの木や他にも数本の結構な大きさの木や畑もあり、昭和30年代頃には何羽ものニワトリも飼っていた。正にカオスの状態で、代々磐崎屋の子供達とその友人たちの格好の遊び場となっていた。

海岸地方の小名浜は、海風陸風が吹く。かつては夏でも30°Cを超える日は少なかった。冬も雪は降らず気候的には穏やかで住みやすい地域である。福島県と言うと、雪がたくさん降るイメージを持つ人も多いが、それは海岸から離れた「会津地方」の話で、太平洋側「浜通り」は東京より降雪量が少ないくらいだ。ただ、冬に吹く風は強く冷たい。夏には爽やかな風が頬を撫でる。

いつの時代にも、何処にでも、数々の出会いと別れがある。
時代の波に流され、抗い、生きていった、数々の人たちがいた。

大正11年(1922年)磐崎屋の親戚「柳町の小野家」七男五女の末っ子として生を受けたユウ子が「磐崎屋」の正門をくぐった、いや、くぐったとの表現は適さないか、実の父小野金太郎の弟、定次郎の妻キクの背中でぐっすりと眠っていたのだから。ユウ子二歳を迎える前の春のうららかな夜だった。はいはい歩きから、どうにか歩けるかとなっていたユウ子の帯には、この日のために実母テイが準備してくれた赤い鼻緒の下駄が大きなお守りのようにかけられていた。

定次郎が玄関の引き戸をそっと開け、体を中に入れた。ユウ子をおぶるキクが静かに続き、定次郎が玄関の戸を閉め振り返ると、一段高くなった畳の部屋に立つ小野四郎と妻しげ、四郎の母タツ三人の下半身が目に入った。

定次郎が目を上に向けると、四郎と目があった。言葉なく軽く頭を垂れると、四郎は頷くように深々と頭を下げた。それに続くようにしげとタツも頭を下げたが、誰一人として挨拶の言葉を発しなかった。キクの背中に眠る赤ん坊と言えるかどうかの小さな命の目覚めを恐れているかのような静けさの中に、どうしたわけか帯に挟まれた赤い下駄の片方が外れ、三和土(たたき)の上に落ちて、カタンと綺麗な音が響いた。四郎は養女ユウ子の目がうすく開き、自分を見たと、信じた。

その3年後、大正14年(1925年)11月、冷たい風が小名浜の街を舐めるように吹いていた。「最上婆トメ」に促されて、山形県西村山郡の農家に生まれたムメが、「磐崎屋」の勝手口から、わら草履を履いた足を恐る恐る土間の上に下ろした。なんの音も立たなかった。

「トメさん、ご苦労様」土間の向こうの部屋から、うす黄色に文様の入った着物姿の恰幅の良い女が立ち上がり、隣に立つこの日会ったばかりのトメさんにかけた声がムメの耳に届いた。女の後ろにはもう少し年のいった白髪混じりで、緋色の着物姿の女が座っていた。見ると、その横にちょこんと洋服姿で細面の色の白い女の子がいる。

赤色とも呼べないほどに薄汚れたキモノに身を包んだわら草履姿のムメと、小洒落た洋服姿のユウ子の目があった。ムメの目は緊張で少し見開いたような、ユウ子の口元にうっすらと笑みが浮かんだような。共に大正8年(1919年)生まれの、六歳の二人の出会いであった。

・・・続く

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