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No.159 オタおばさんと母ユウ子「ムメとユウ子」(2)助走・下調べ

No.159 オタおばさんと母ユウ子「ムメとユウ子」(2)助走・下調べ

No.158の続きです)

「オタおばさん」に初めて会ったのはいつの事だったのだろう?おそらく、僕が小学校に入学するかしないかのある夏の日、当時の地名で言うと福島県磐城市にある僕の実家「磐崎屋」に、四人の男の子を連れて、母ユウ子の友人として東京からやって来た、と思う。兄弟の一番下、四男のシゲオくんが僕と同い年で、心のずっと奥に「シゲオ、しんやちゃんと同じ歳だよ〜。もうすぐ小学校に入学なんだよ〜」語尾を伸ばす独特の優しい声が、おばさんの笑顔と共に残っているのは、僕の後年の想像か、創造かとも思う。

ずっと穏やかな表情を見せる四人の男の子のお母さん、オタおばさんは「懐かしいねえ〜」などと言いながら、茶の間の隅々に目を配らせる。そんなおばさんを、父武は「オタちゃん」と呼び、母ユウ子は親しみを込めてか「オタ」と呼び捨てで話しかけることが多かった。

山形県生まれの「オタおばさんこと遠藤ムメさん」は以前に「磐崎屋」で働いていたことがあり、その後東京都葛飾区で所帯を持ち、四人の息子さんを授かったと言うことを、徐々に知ることになる。子どもは成長するにつれ、様々な知識を身につけるのと同じように、自分の周りの「大人たち」について知るようになる。一番身近にいる存在の親についても、もちろん全てを知るわけでもないが、他人へ対してと同じように、その存在を偏見を交えながら形作ってゆく。

母ユウ子は、幼い頃おそらく二歳の時、養女として「磐崎屋」に入る。数年後に義理の父四郎が38歳の若さで亡くなり、四郎の母タツと四郎の妻シゲの二人は、母ユウ子を「旧家のお嬢様」として育ててゆく。

何の根拠もなく、父武と母ユウ子は第二次世界大戦の数年前に結婚をしたと思っていた。結婚後すぐには子どもに恵まれなかったとの話からそのように判断していた。だが、両親が結婚したのは1944年3月、終戦を迎える一年五か月前であった。父武が赤紙に従い中国の戦地に向かったのは結婚式を挙げて間もなくだったことになるのだが、正確な日付は分かっていない。母ユウ子は兄弟が多いとは知っていたが、十二人きょうだいだとは知らず、今回の調査で、初めて聞く両親の親戚の名前も多く、いかに自分が両親のことを知らなかったか思い知らされた。自分もまた、故人に対して多くの人が持つ「もっと聞いておけば良かった」思いに駆られることとなってしまった。

オタおばさんが「磐崎屋」に来た時代背景も調べ始めた。大正昭和の時代の東北地方の貧困の問題と関係があるのは知っていたが、いくつかの書物にあたり、昔を知る人と話す機会を作り、少しずつながらもその輪郭が見え始めてきた。

早苗姉と昔話をする中で「最上っ子(もがみっこ)」の言葉が出てきて気になった。ネットで検索すると少ないながらも「季刊東北学第七号」の中にこの言葉が使われていたので、この本を購入した。巻末「読者から」に「いわゆる最上っ子・最上婆」と題して、千葉県在住の「芦原敏夫」さんが投稿している。出版社や記事の中の方に連絡して、もう一歩のところで「芦原敏夫」さんに行き着くところまで来たのだが、未だお会いして話を聞く機会を作れないでいる。

「昭和東北大凶作」山下文男著や、山本七平氏の本なども時代背景を掴むのに役に立った。オタおばさんが生まれた山形県西村山郡に足を運んでもいないし、まだまだ調べ足りないところもあるし、noteの記事には向いていないとも思うが「ムメとユウ子」の物語を手探りの中で編み始めてみよう。

・・・続く


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