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No.158 オタおばさんと母ユウ子「ムメとユウ子」(1)助走

No.158 オタおばさんと母ユウ子「ムメとユウ子」(1)助走

今年の3月にnoteを始めて、様々な記事を思いつくままに楽しく書き綴ってきた。ほとんど全て、自分がこれまでに触れてきた素晴らしきものへの讃歌であり、接してきた人々への謝辞とも言える。そして読んでいただいている方たちに共感していただき、僕の良き経験を言葉を通して、少しでも分かち合える喜びを感じてきた。

この姿勢を持って、これからも「楽しい記事」をこれまで通りに書いていこうと思っている一方で、自分ではない「人々」と「その心の動き」を「時代の流れ」の中で書いていくつもりでいる。いわゆる「小説」になる。書く題材は「オタおばさん」こと「遠藤ムメ」さんと、僕の母ユウ子とが時代の流れの中で綾なしてきた触れ合いを基盤に置く。

ずっと以前から「二人の物語」を書こうと思ってきたが、踏み出せずに時が流れてきてしまった。何故、自分は書き始めることができないのであろう?「オタおばさん」のことも「母ユウ子」のことも、僕はよく分かっていなかったのだ。それが筆の進まない原因の一つであった。

2008年4月に母ユウ子、2011年にオタおばさんが亡くなった今、本人たちの口から話を聞くことは叶わない。母ユウ子が亡くなった後だったので、2009年になるのか、オタおばさんにお会いしていろいろな思い出話をしてもらい、いずれ二人の話を書くと、約束に近い言葉をおばさんの耳に届けて今に至っている。

そう、二人の話を書くのは「約束」であり「約束」は果たすのが誠実と言うものだ。どこかに「使命」も感じるのだ。二人の人生を、時間軸で書き綴っていくのは「記録」になり、多くの人は「はあ、そのような人がいたのですね。そんな時代もありましたね」で終わってしまい、何か二人の人生を冒涜するようにも思え、それは僕の目指すところではない。

ここ数ヶ月の間に、オタおばさんの息子さんの勇三さんにお会いしたり、親戚の事情に詳しい嘉太郎さんに話をお聞きしたり、姉早苗と幼少時の思い出話を笑いながら語り合ったり、戸籍謄本などを調べたりして、両親のことを初め様々な事実を、自分があまりにも知らずにきたことに愕然とした。

共に大正八年に生を受け、山形県に生まれ七歳頃か酒造業を営んでいた福島の僕の実家「磐崎屋」に奉公に出されたオタおばさんと、福島県いわき市、七男五女十二人きょうだいの末っ子で、二歳の時に親戚の家から養女として「磐崎屋」に入った母ユウ子は、成人するまでは対照的な立場にあるも、大正昭和の激動の時代に翻弄されながら生きていく。

そんな二人の人生を、読む人に思い切り共感してもらうために「小説」の形態を取るのだ。ひょっとすると執筆が止まってしまう、遊び好きな自分を鼓舞するためにnoteを利用して、数ヶ月をかけて「ムメとユウ子」を、時間軸を無視して書き連ねていき、書いたものを並べ替え、書き足して、削って、一つの「物語」を作り上げてみよう。

・・・続く

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