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No.210 旅はトラブル / Hawaiiハワイ1977年・初めての海外旅行(1)

No.210 旅はトラブル / Hawaiiハワイ1977年・初めての海外旅行(1)

雪化粧の朝を迎えているわけでもない。それでも、冬の朝は東京でも寒く、初めての海外旅行で訪れた南国ハワイの乾いた暖かい風を、40年以上の年月が経った今でも僕の肌が恋しがる。

1976年11月10日僕が22歳の時、3歳年上の連れ合い由理くん(子供のいないこともあり、このように呼ぶことが多かった)と結婚式をあげた。すでに二人で東京板橋区の片隅で家業の酒販店を営み始めていた。19歳の夏に自転車一人旅で訪れた木曽・高山・軽井沢(No.045)を、今度は二人3泊4日のドライブが新婚時の旅行だった。

酒屋商売ゆえ、長期の休みが取りづらかったこともあり、新婚旅行で海外に行くことは選択肢になかった。行くとしても、生活が落ち着いた少し先のことかと考えていた。映画や美術を通して熟成したヨーロッパへの憧れから、イタリアやフランスには行きたかったが、アメリカを含めた英語圏には、魅力を感じなかった。英語が話せないことも関係していたかもしれない。ましてや、泳ぎが苦手なので、ハワイやグアムを訪れる機会はないだろうと思っていた。

松尾さんは近所のお得意さん。年も明けた1977年の1月某日、松尾さんの奥さんがショッピングカートを引き、買い物に来てくれた。帰り際、松尾さんがふと立ち止まり振り返った。うん、何かあったかな?松尾さんの奥さん、顔を近づけてきて、秘密を話すように呟(つぶや)いた。「わたしね、今日テレビのクイズ番組に出て、ハワイ旅行勝ち取ってきたの」初めて会いました、こういう方に。「へえ〜!それは凄いですね!」話が弾み、松尾さんはにこやかに家路に着いた。もちろん、この晩の由理くんとの食卓の話題になったことは言うまでもない。

数日後、松尾さんの奥さんが店にやってきた。いつものショッピングカートは無く、空の両手を後ろに組み、話を切り出した。「あなた、代わりにハワイ行ってくれない」「はい!?」。聞くと、クイズ番組の賞品はハワイへの往復チケットとワイキキ海岸近くのホテル4泊代金一人分で、2月いっぱいまでの渡航との制限もあった。

松尾さんの奥さん曰く…ご主人と行くとなると、別料金もかかるし休暇も取りづらい。独身の息子さんも、一人じゃなあ〜、と乗り気ではない。親戚知り合い、何人かに声をかけたが行きたい人が見つかっていない。「あなた(僕のことです)いつも感じいいし(褒められました)お金いらないから」と、お願いされてしまった。僕の頭の中をよぎったのは「ハワイか〜、是非とも訪れたい観光地ではないな。由理くんとの旅行であれば行ってもいいかな」だった。

その翌日、旅行会社に連絡してみると、追加のチケットは手配できると言う。酒屋商売をしながらNHKラジオ英会話や基礎英語で勉強を進め「何度目かの挫折」(No.046 No.023)を感じていた時期でもあり、何かの縁を感じた。

由理くんに「いい機会だね。新婚旅行っぽいよね」提案すると、ハワイより香港に行きたいと言う。由理くんのこういう自由なところが大好きだったなあ。夫婦喧嘩などまるで無く、話は広がっていき、僕は父武とハワイに、由理くんは自分の母喜代子と香港に行くことになった。4人とも初めての国外への旅行だった。

英語の自信はまるでなかったが、ハワイを訪れた何人かの友人知人から、ハワイは日本語通じるし心配はいらないよ、とのアドバイスをもらった。テニスが趣味の一つだった父武はこの時60台後半(今の僕と同じ年齢だったのか…)で、その時も硬式テニス福島県シニア(50歳以上)チャンピオンで、年下のテニス仲間たちから「小野さん、早く引退してくださいよ」と冷やかされていた。

ハワイへの旅の同行の提案に対して父武が乗り気になった理由の一つに、ご近所堀口さんの息子さんがハワイで事業に成功して家庭をお持ちだったことがあった。息子さんが高校生の時、父武がテニスのコーチをした事もあり、ハワイで堀口さんの息子さんとテニスをする楽しみが待っていた。

トラベラーズチェックなる現金より安全な支払い方法を知ったのも、このハワイ旅行の準備を進めている時だった。1977年当時、日本はもとより、アメリカでもクレジットカードの普及はまだ広がっておらず、現金での支払いの方が多数派だった。ドル・円の為替レートも1ドル230円くらいだったと記憶している。現在1ドルが約115円、円のドルに対しての購買価値は、40年ほどで約2倍になったとも言え、隔世の感がある。

ハワイへの旅は10人ほどの団体で、到着後のオアフ島回遊バスツアー以外はフリーだった。父武と二人での旅も団体ツアーも、後にも先にもこの旅だけである。棚からぼたもちのような形での初めての海外旅行、高揚感も薄かったが、飛行場を出た僕の頬を撫で過ぎていった南国の乾いた爽風の一撃は大きかった。

当時、巷で言われていた「憧れのハワイ」。2月の東京の寒空に吹く風と、飛行機で僅か7時間ちょっと、陽光をたっぷりと浴びて吹く南国ハワイの風は、あまりに違っていた。「うん、そりゃ『憧れる』人が多いのは納得だ。この気候だけで充分だ」思わずひとり頷いていた。隣に立つ父武も同じように頷いた、ように見えた。

・・・続く

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