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Re-posting No. 042 英語・挫折の歴史(7)ジョージくんからまゆみさんへの繋がり

Re-posting No. 042 英語・挫折の歴史(7)ジョージくんからまゆみさんへの繋がり

(昨年投稿したNo.042を大幅に書き直しました。Re-posting No.037の続きですが、時間軸では同時進行に近いです)

まゆみさんと出会ったのは、1980年前後僕が20歳代後半の時だったので、かれこれ40年以上も前のこととなる。まゆみさんとの出会いは、僕の連れ合いの由理くんの父隆司さんの弟康司叔父さんと奥様の禮子叔母さん、そして長男ジョージくんと次男のシェリーくんたちとの触れ合いから生まれたと言える。

康司おじさん一家は千駄ヶ谷駅前のマンションにお住まいで、結婚前の挨拶も兼ねて、僕と由理くんは二人、酒屋商売で使っていたトヨタのカローラバンで明治通りを走り、定休日の水曜日の夜に「千駄ヶ谷のおじさん」宅を訪れた。

由理くんの父隆司さんと初めてお会いした時と同じように(No.093 No094 No.095 No.096)康司叔父さんの強烈な個性と関西弁から繰り出される数々の話に、僕は魅了された。そして、昨年康司叔父さんが亡くなるまでずっと、楽しく刺激的なお話を聞かせて頂いた。

康司おじさんはアメリカの大学を卒業後、記者としてニューヨーク在住、帰国後、海外からのニュースを取り扱うビスニュース社の日本支局長の立場にあった。奥様の禮子さんは、アメリカ大使館にお勤めの経験を持ち、英語を生で身近に使う人たちと、人生で初めて出会った(Reposting No.029)。

初めて「千駄ヶ谷の叔父さん」のお宅を訪れた時、ニューヨーク産まれの二人の息子さん、ジョージくんとシェリーくんは共に小学生だった。帰国後当初は、二人ともにアメリカと日本の小学校の違いに戸惑ったことも多かったそうだ。

僕が趣味のマジックを叔父さん宅で披露する機会も多く、ジョージくんとシェリーくんはこちらの自宅の中板橋にも遊びに来るようになっていった。二人とも笑顔の絶えない穏やかな性格で、毒舌家の康司叔父さんよりも、禮子おばさんに似ている印象を漂わせて学年を重ねていった。

高校に進学したジョージくんが、僕の自宅の板橋区中板橋に遊びに来た。アメリカから帰国当初、話せていた英語ができなくなってしまった上に、学校の英語の点数が取れていなかった。僕は、朝日カルチャーセンターでの受講のあとTVやラジオの英語会話番組視聴、そして坂本さんとの学習(Re-posting No. 037)は続けていたが、新たな刺激を求めている時期だった。

由理くんも交え、夕食を共にしながらジョージくんとお互いの近況報告だ。「いやー、父にですね、学校の英語の点数酷いんで『お前、あかんなあ』ですよ」由理くんが思い出話を披露する。「ジョージくん、小学生の時、山手線の中で、外人さんの英語での会話に『こんな話してる』言うて私に教えてくれたやん。今はできへんの?」「全然ダメですねえ」日本語の渦の中での生活で、どのようにもう一つの言語能力が削られていくのだろうか?

「それでですね、父の友人にプライベートで英語教えてもらっているんです」「オレもね、どこかいい英会話教室ないかって、思っててね。ところでお父さんの友人って外人さん?」「いや、日本人のおっさんです。クニヒロさんって言います」「はっ!?ひょっとして國弘正雄さん?」「そうっすね。なんか有名らしいっすね」

國弘正雄さんは同時通訳の草分け的な存在で、1969年人類初の月面着陸アポロ11号の中継での同時通訳や数多くの通訳者を輩出する「サイマルアカデミー」の創始者の一人として名が知られていた。後に政界にも進出する方で、康司おじさんと友人とは知らなかった。

「喫茶店なんかで教えてもらってるんですが、言うこと難しくて分かんないんですよ。喫茶店のお姉さんに声かけて、無視されて、ちぇっちぇっ言ってました、この前。ギャハギャハ!変なおっさんですよ」ネコに小判か?ジョージくんがネコなのは分かるが、國弘さんが教師として小判かは判断できなかった。

由理くんも面白がってジョージくんに尋ねる「その國弘のおっさんから学んだことで印象に残っていることってあらへん?しんやくんの役に立ちそうなこととか?」「なんかあったかなあ?あっ、そうだ。國弘さんが『スタントンスクール』は、いいって言ってましたよ」

「スタントンスクール」という英会話学校が都内に數校あるのは、NHKの英語テキストの宣伝などで知っていた。イギリス英語を売りにしていたところからか、勝手にレベルが高そうでお堅いイメージを持ち、何となく敬遠していた。

翌日、スタントンスクール市ヶ谷校の受付の椅子に座っていたのは、権威に弱くないと、常日頃言っている僕の言質の程度をさらけ出していた。受付の女性にいくつか質問を受けた後に、ネイティブの教師との面接があった。

別の部屋に入ると、金髪に薄い口髭を蓄えた面接官が座っていた。この頃には、会話のコツと言うか悪い知恵もついていた。リスニングに弱点があったし文法の知識も乏しかったが、会話の定型文はいくつも暗記していた。そんな僕の作戦の一つが、話をこちらのペースに巻き込むことだった。

名前を聞かれたり簡単な質問の後に、”What do you do in your free time?”「時間のある時、何をなさっていますか?」ゆっくりと聞き取りやすいキングスイングリッシュで尋ねられた。自分のテンプレートの一つに持ち込めた。”One of my hobbies is magic. Let me show you a trick.”「趣味の一つがマジックです。一つお見せしましょう。」財布から一枚の千円札を取り出し、真ん中に穴を開ける。「Watch carefully! 注意して見てください!」破った紙幣が復活する僕のペットトリックを披露して、彼の笑顔と過大評価を得て、一番上のクラスに振り分けられた。処世術とマジックの成せる技だった。

スタントンスクール初日水曜日19時、週一回三ヶ月のコース、男性三人女性五人、若いイギリス人男性Miles教師の自己紹介に続き、受講生徒が一人一人英語での自己紹介をしていき、クラスの中での自分の位置を知る。朝日カルチャーセンター初級英会話の時と比べ、クラスのレベルは上がったが、この教室の中で自分が一番下と判断できた。

この時の同級生たち、昌一郎さん・俊史さん・メイさん・美樹さん・かな枝さん・靖子さん・まゆみさんとの交友は年賀状でのやり取りなどを通して、今に至る。同級生それぞれの交友については、機会を見て触れることになると思うが、ここでは、机がコの字に並べられた教室の僕のちょうど真向かいに、ベージュのスーツを着こなして座り、綺麗な英語で自己紹介をしてくれたまゆみさんについて筆を進める。

4・5回目のレッスンの時だったか、まゆみさんの隣に座り、リスニングのテープが流された。僕はかなりの部分が聞き取れない。まゆみさんの手が、メモ用紙の上で小さく動いているのが目に入った。一枚の紙の上に、何やら不規則に文字が書き散らかされている。はて、何だろう?Miles教師の指導のもと答え合わせをすると、僕は半分ほどしか正解できず、まゆみさんは全問正解だった。

レッスンの帰りに、何人かでお茶を飲むようになっていた。まゆみさんに謎のメモの事を尋ねると、リスニングの時に出てきた地名・人名などの初めのアルファベットとの答えだった。Tokyoであれば「t」と、Mikeなら「m」と記しておけば思い出せる、高校で習ったとの事だった。

そんな方法などまるで知らなかった僕は、まゆみさんがどんな英語教育を受けてきたのか興味津々となった。好奇心からの年上の僕の根掘り葉掘りの質問に、まゆみさんはにこやかに答えてくれた。

横浜にある英語を専門に学べる高校に行き、留学経験もない中、高校在学中に英検一級を取得、大学一年生の時通訳テストも一回で合格したとのことだった。僕の「凄いですねえ」との感嘆の言葉に「いえ、運が良かったんです」と、どこまでも謙虚な姿勢を崩さなかった。

まゆみさんは語彙も豊富だった。vernacular見たこともない語を何処で学んだか尋ねると、覚えていないと返された。覚えた単語が単語帳の真ん中あたり右側ページ下付近、はっきりと言えるような覚え方をしてきた僕には、何処で学んだか記憶にないとは信じられなかった。

「どこで学んだかハッキリとしない」沢山の量の英語に触れてきたから言える言葉なのだろうと判断できたが「沢山」の具体的な量など見当もつかなかったし、自分がその域に達するとも思えなかったが、まゆみさんの言葉だけは心の奥に焼きついた。

その後数年して、僕は上智大学比較文化学部に入学する。卒業後、酒屋商売から転身して学習塾を始めて数年後、生徒のなつみちゃんとのプライベート授業の時、単語corpulouasが出てきた。単語の意味を教えると、なつみちゃんから聞かれた。「先生、単語帳に載っていないそんな単語、何処で覚えたんですか?」「何処で覚えたかって?覚えてないなあ」答えてハッとした。まゆみさんの顔が、言葉が、スッと僕の前を横切っていった。

まゆみさんと出会ってから30年近い月日が流れていた。

・・・続く

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