No.198 僕の本棚より(1)「世界名画の旅」 / 「美術」との触れ合い
No.198 僕の本棚より(1)「世界名画の旅」/「美術」との触れ合い
幼ければ幼いほど無垢に、大人になるにつれ色々と推し量りながら「自分が惹かれるもの」に、人は近づいていき触れてゆく。「惹かれるもの」の狭い人は「一途なひと」、広い人は「好奇心の強いひと」と分類できるかもしれない。僕は後者「好奇心の強いひと」に組み込まれそうだ。
物心つく頃より今に至るまで様々なものに接してきて「人との触れ合い」や「旅の思い出」のように「形に残らないもの」を中心に、noteの記事で書き綴ってきた。面白い事に、書き綴ってきた思いが、ほんの一部かもしれないが「形として残って」いる。
一方、僕が惹かれてきたものの「形」が、僕の本棚やCD / DVDラックや部屋のあちこちに、「思い出」が張り付いた状態で残る。そんな「形」と「思い出」を掘り起こし「文字」の形で飾り立ててみよう。
両親が特に「美術」に興味が深い方でもなく、身近に「絵描きさん」がいたわけでもない。僕の最初の「絵画」の思い出は、小学三年生の国語の教科書冒頭ページに掲載されていた岸田劉生「麗子像」だ。同級生たちが「なんか怖いー!」とか「気持ち悪い笑い〜」とか言って、僕も同感だったが、少女が身につけている着物のくすんだ赤色が「綺麗だな」と思ったのを覚えていて「岸田劉生」の名前もくっきりと、小学生の僕の中に刻み込まれた。
その次の年、やはり国語の教科書の冒頭に、ギュスターヴ・クールベ「石割人夫」が簡単な解説と共に載っていて、写真のような「絵画」に驚きながらも、人夫の動きのどこかに「不自然さ」を感じたのも記憶に残っている。こちらも「麗子像」と同じように、クールベの名前と共に「美術」というものがあるのを教えられた。心が動かされたのではないが、ざらっとした感触が残った。
僕に「美術」を教えてくれたのは国語の教科書だったようだ。小学五年生、この頃には「絵画」と「漫画」を区別する世間体を、良いのか悪いのかはともかく、身についていた事だろう。「漫画」に夢中になっていたが、どんな「美術」が国語の教科書に載っているのか楽しみでもあった。教科書の表紙をめくると、赤い色調をベースに家々が描かれた「絵画」が目に飛び込んできて「あっ、いいな!」と心を掴まれた。梅原龍三郎の「北京秋天」だった。
東大寺戒壇堂「四天王像・広目天」を小学六年生の国語教科書で見た時は、一目で感動した。眉を寄せ餓鬼を踏みつける姿の何処かに「漫画」の世界の登場人物との共通点を見たからではなく、漫画世界の悪役よりも「かっこよく」見え、僕の関心が徐々に「美術」に移るきっかけの一つになったように思う。
中学生になり「美術」の時間が加わり、水彩画やデッサンの実技は楽しかったのだが、いわゆる「美術史」を学んだ記憶は残っていない。1973年19歳の時、故郷の福島から東京板橋に生活の基盤を移してから、都内の美術館のあちらこちらに、連れ合いの由理くんと一緒に足を運ぶようになる。気に入った展覧会の図録などが本棚に収まっている。いずれこの「僕の本棚より」で触れてみたい。
「美術」:(fine artsの訳語)本来は芸術一般を指すが、現在では絵画・彫刻・書・建築・工芸など造形芸術を意味する。アート。クンスト。(「広辞苑」より)
「美術」が僕の生活の一部となってきた時、朝日新聞日曜版に「世界名画の旅」が「ピカソ・自画像」を初回として連載が始まった。作家や美術作品が生まれた背景に限らず、その当時の社会情勢や所有者のエピソードなどが興味深く、海外に行かなければ鑑賞できない作品などには特に恋焦がれるようになっていった。
1984年秋から約2年半124回、多くの読者に惜しまれつつも連載を終え、五冊の変形大型版書籍として発刊された。後に、美術品の所有場所ごとに編集された文庫版も発行されて、中古本ならば今も入手可能だと思う。
「世界名画の旅」124回の中で、特に印象に残ったのはアメリカの二つの美術館の話だった。ヨーロッパへの旅は大好きで10数ヵ国を訪れているが、アメリカ本土に行ったことはない。政治的には好感が持てないアメリカへの訪問を望んでいなかったのだが「世界名画の旅」を読んで、ボストンにある「ガードナー美術館」とフィラデルフィアの「バーンズ財団ギャラリー」には是が非でも足を運びたくなった。
二つの美術館に共通しているのは、美術館の創設者であるイザベラ・スチュワート・ガードナー夫人とアルバート・C・バーンズ博士の良い意味でのエキセントリックな生き様と美術品収集への情熱である。
ティツィアーノ作「エウロペの略奪」に代表される己の趣味にこだわったガードナー夫人の収集群は、それに合わせて作られた美術館で鑑賞したいものだ。彼女の生い立ちと人生は映画の題材にピッタリで、いつの日か制作されても不思議ではない。
「世界名画の旅・セザンヌ『大水浴』」の記事で紹介されたバーンズ財団ギャラリーに至っては、作品群は門外不出とのことだった。地元住民たちの嘆願により、渋々金土日週に3日のみ一日限定100人のみ入館可能、僕の大好きな印象派作品を大量に所蔵する、こんな記事を読んでしまったあと、「バーンズ財団ギャラリー訪問」は、僕の人生の「宿題の一つ」となってしまっていた。
1993年秋、北海道の友人キムラくんから「季節の便り・カボチャ」が届いた。カボチャは新聞紙に包まれていた。なにげなく見ると、カラー写真が「絵画」で、普段は全く見ない読売新聞だった。見たこともない「絵画」の横に「とんでもない」文字が踊っていた。「門外不出の『バーンズコレクション』公開!」思わず声をあげていた「ええー!あの『バーンズ財団ギャラリー』だよね、これって!」
江戸時代の終わりから明治時代初頭、日本からヨーロッパの国々に瀬戸物などを送るとき、緩衝材として浮世絵が使われたことがあり、それを見た西洋の人々が驚いたことがあったとの話を何処ぞで耳にしていた。「瀬戸物」が「カボチャ」に、「浮世絵」が「バーンズコレクションの絵画」にとって代わったような思いだった。思わぬ情報がついた「季節の便り」を送ってくれたキムラくんに感謝した。
・・・続く