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Re-posting No.060 浪人一年生。春から夏へ・迷えるしんや『僕の映画ノート(7)』

Re-posting No.060 浪人一年生。春から夏へ・迷えるしんや『僕の映画ノート(7)』

No.197 の続きです。 書き直して再掲載です。副題『『僕の映画ノート(7)』を付けました)

1973年(昭和48年)当時、福島県立磐城高校を卒業し大学受験を終えたものの中では、「おお〜、お前もか」の言葉は珍しくなかった。受験失敗を意味していた。僕も「お前たち」の一人となっていた。

大学進学の道を探る「お前たち」には、大きく分けると二つの選択肢があった。地元に残り、高校敷地内にあり「卒講」あるいは「プールサイド」と呼ばれた予備校もどきに通う。もう一つは、地元を離れ、東京あるいは仙台あたりの予備校に通うかであった。

東京板橋区に実家が経営する酒販店があり、四階建ての建物の一階が店舗、四階に兄と姉が住んでいた。この時は兄が酒販店経営を任されており、姉早苗は大学生だった。四階の一室が浪人生の僕の部屋となり、代々木ゼミナール本校に籍をおいた。結果的に、浪人時代をもう一年送ることとなる。

代々木ゼミナール、通称代ゼミの登校初日の印象は鮮明だ。山手線代々木駅で下車、学生服に学帽の男子、そして、ミニスカートにショルダーバッグの女子、対照的な様子の若者を含む人の群れが代ゼミの校舎の中に吸い込まれていく。

大教室の後方左側になんとか席を確保する。程なく、脇に数冊の本を挟んだ若い講師の先生が入ってきた。簡単な自己紹介を済ませると、すぐに授業が始まった。講師がテキストの英文を読み始めても、次々と生徒が入ってくる。大教室が人で溢れんばかりだ。

次年度受験のライバルたる浪人生ってこんなにいるんだ。これに来年卒業予定の高校3年生が加わると思うと、半ば呆れ、半ば馬鹿馬鹿しくなってきた。多数派の一人として生きていくのを良しとするのか?できるのか、自分は?

登校二日目も、三日目も、人の群れは同じように意識なく、代々木駅前のビルの入り口に食べられていくようだった。教壇では、講師が熱い口調で講義を進める。クラスのあちこちから、笑い声が聞こえる。高校時の教師たちのシラけた授業とは別の価値観もまた、心に響くものではなかった。

登校五日目、若者の群れは代々木駅右方向に向かう。僕は見えない鎖を切り払うように、群れに背を向けるようにして、この先に何があるのかという好奇心も持たずに、だが当然のように、左方向に伸びる道に歩を進めていた。

しばらく歩くと、代々木駅前の混雑が嘘のように視界が開けた。東京都とは思えない木々と芝生の緑が目に入ってきた。遠くに人の姿がぽつりぽつりと見える。ジョギングしている人や、犬を連れて散歩している人も見えるが、みなのんびりと時を過ごしているように見える。

前方の芝生に向け歩を速める。バッグを放り投げ、芝生に横たわり四肢を思い切り伸ばすと、自然と息が詰まった。大教室の中での息の詰まりと違った。空に浮かぶ巻雲も、形の定まらないその体を伸ばすようにゆっくりと動いてゆく。両の手を頭の後ろに組むと腹筋運動でもしたくなる。頬を撫でて吹く風が心地よい。

大都会の中の豆粒のような点、明治神宮外苑の中に見つけた憩いの場所だった。バッグの中から、数日前に偶然手にした一冊の薄い雑誌を取り出す。「ぴあ」訳の分からない言葉が表紙に書かれていた。
中にはギッシリと都内の映画館などの情報が書かれていた。信じられない量の情報だった。映画館の上映時間などは、新聞の中に数館のみしか掲載されているだけの時代だ。

飽きずに、無味乾燥な文字の洪水の中に漂う。「京橋」のところに目を奪われる。「自由を我らに」ルネ・クレール監督1931年製作のフランス映画の名作。高校生の時から愛読書となったキネマ旬報の増刊号「キネマ旬報・世界映画作品大辞典」(No.194)で題名のみ知る、この年のベストテン第一位に輝いた作品だった。

観ようにも観られなかった映画の一本が上映中、映画館の名前「フィルムセンター」、入場料「80円」。未知の映画館、地下鉄料金よりも安い入場料金。池袋文芸坐などの低料金上映館、いわゆる名画座の料金が200円だ。信じられなかった。

上映は午後3時から。11時を指している時計が恨めしかった。

「フィルムセンター」との出会いであった。

・・・続く

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