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No.167 若き友よ!(8)ライバル藤ノ木くん「再会」その2

No.167 若き友よ!(8)ライバル藤ノ木くん「再会」その2

No.166 の続きです。最初の部分は再掲載です)

成田から僕の自宅に向かう車中で聞いた。「藤ノ木くん、連れ合いの由理が亡くなったことは知らせたね。初めてウチに来たとき、由理が『藤ノ木くん、アメリカで何がしたいん?』って聞いたこと覚えているかなあ?」

「えっ、覚えて、いないです。由理さんが、そんなこと、聞いて、くれたんですか?」
「ずいぶんと時が経ったからなあ。じゃあ、自分がなんと答えたかも覚えてないか〜」
「ええ、記憶が、曖昧です。えっと、大学で、コンピューターを、教えたい、とか、言いましたか?」
「うん、近いことを言ったね。それで、今、どうしているんだい?」

昔と変わらない口調で、人生を振り返るように「若きライバル」は、訥々と語ってくれた。

「イリノイ州の、大学で、Associate Professor、日本語で言うと『準教授』して、います」
「ええ〜、大学教授になったんだあ!アメリカで夢を掴んだね!おめでとう!」
「コンピューターの、授業を、受け持って、います。研究も、忙しい、です」
連れ合いの由理くんの勘が当たり、僕の直感が外れたわけだ。

向こうの世界に行ってしまった由理くんに「残念ながら、ボクの方が人を見る目がなかったようだね。由理くんの勝ちだね。流石だよ」無言で、伝えた。

「ようやく、信也さんに、報告できる、ようになったので、お会いできるなって」
「な〜に言ってるの。藤ノ木くんがどんな仕事していたってかまやしないよ。ともかく元気そうで良かったよ。さっき、アソシ何とかって言ったよね、準教授だっけ。こちとら、組織の中にいたことがないから、その有り難さがまだピンとこないなあ。詳しく教えてよ『藤ノ木教授』」
「も〜、信也さん、変わんないなあ、『教授』じゃ、ないですよ〜」
藤ノ木くんは、無知で悪戯好きな生徒を目の前にして、微笑みながらアメリカの大学システムについて講義してくれた。

大学を卒業後、2001年の時に「Southern Illinois University 南イリノイ大学」に「Assistant Professor 助教授」として勤務を始めた。数年働いたのち、職務が認められて「Associate Professor 準教授」の地位を得た。そして、先年に終身雇用資格である「tenure・テニュア」を獲得したので、晴れて僕に報告できるようになったと言ってくれた。

「Assistant Professor 助教授」と「Associate Professor 準教授」の地位や立場の違いも分からず、ましてや「tenure・テニュア」なる言葉は初めて聞いたし、その獲得がいかに難しく大変であることは、僕にはまるで分からなかったのだ。どう言う訳か、僕の人生に度々起こる「ネコに小判・豚に真珠」状況と言ってよかった。

藤ノ木くんが得た立場の獲得は、何年もの厳しい審査があり、競争率も半端なく高く「Academic Lottery 学術分野の宝くじ」と呼ばれることもあるらしい。アメリカ中の大学を検索してみても、藤ノ木くんと同じような立場の日本人は、皆無に近いらしい。どなたかお知り合いがいたら教えて欲しいそうだ。

「ほ〜、話を聞くと大変そうだねえ。大したものだよ。で、いい女性(ひと)は見つけたかい?」
「はい、タイ出身の、アメリカ人、です。子供は、まだ、いません」
車は東関東自動車道から首都高速道路に入っていた。渋滞もなく、車は順調に自宅の板橋へと進んでいた。

「日本のM大学では文系、政治経済学部だったかな。そこからコンピューターに興味を持った話や、アメリカの大学を目指す動機などを詳しくは聞いていなかったなあ。今日は『根掘り葉掘り』聞いちゃうぞ〜」

大学2年生の頃「NEC9800シリーズコンピューター」を中古で買ったのがキッカケの一つで、当時のOSはMS-DOS、いわゆる「マシン語」の概念に心を掴まれた。コンピューター最先端の地アメリカでの大学で学ぶ夢を持つと、日本で文系の勉強を進めることや、就職活動に違和感を感じてしまったと言う。家族に大学を辞めたいと言って引き止められた話は、以前の記事(No.165)でも触れている。

「どうやって、アメリカの大学の情報を得たんだい?1980年代だったかな?その頃に出た『ラップトップ型』コンピューターに笑った記憶があるよ。ラップトップ『ひざの上』に置いたら重くってさ。コンピューターの世界は、まだ草創期と言えたよね」

大学4年の時、都内にある留学生支援センターに行き、アメリカの大学を調べた。入学には「GRE Graduate Record Examination テスト」「TOEFLテスト」の高得点が必要とされることを知る。ニューヨークのある大学の教授に手紙を出したところ、丁寧な返信があり「日本の大学を卒業したら、また連絡しなさい」との事で、暗闇の中に僅かな光が見えた瞬間だった。

藤ノ木くんは、僕の人生の中で出会った幾人かの大いなる刺激を与えてくれる「道を切り拓いていく人」のひとりである。

車は首都高速5号線「板橋本町」の降り口に近づいていた。もう少し渋滞していれば良かったかな、話をまだ聞けたのに。そう、アメリカの大学での話をまだ聞いていないぞ。日本に対する気持ちはどうなのかな。まだまだ聞きたいことが、頭の中で溢れていた。

・・・続く

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