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体験と言葉の往還

6月のある週末、人類学になんとなく興味のある人たちが鳥取に集まった。
その時のことを言葉にしようとすると、伝わらない。全然伝わらない。
私が体験したあのミラクルな時間は、私の言葉では説明できない。何かが抜け落ちてしまう。
満点の星空を写真に撮った時、生で見ないとこのすばらしさは伝わらない、と思うときと同じように。

体験していない人と「体験」そのものを共有することはできない。
でもなぜか言葉にしておきたいと思う。
言葉にすることでミラクルな時間が、陳腐なものになってしまうのに。
でもきっとそれは自分のため。

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思えば10年前、大学生だった私はスタディツアーでタイに行った。

当時はいわゆる理系の学部にいて、ものごとを理解するフレームワークは数字だったり、化学の理論だったりした。そのようなフレームワークを通して私は世の中のことを理解していた(していると思っていた)し、そう思えば世の中をスッキリと整理することができた。

ところが、タイに行ったとき、いつもの世界とあまりにも違って、体験したことを整理することができなかった。この時初めて、自分が体験したことを言葉に残しておきたいと思った。それまでは学校などで書かされるさまざまな文章を、書きたいと思って書いたことはほとんどなかったように思う。
日記のように体験したこと、感じたことを文章にしてみるものの、言葉が足りない。自分の感じたことをぴったり表現する言葉が見つからない。こういう状況になって初めて本を読むことがおもしろくなった。本を読んでいて、私が言いたかったのはこういうことか!と既に誰かが表現したり、説明したりしてくれている。そうやって、ゆっくりと時間をかけて、体験を言葉に落とし込んでいくことのおもしろさに気付いた。このとき、ようやく言葉がものごとを理解するための道具となった。

体験と言葉の往還を繰り返すこと。それによって見える世界が広がっていく。
理系/文系と分けることはできないし、もちろん理系と言われる人が全員「言葉」をものごとを理解するためのツールとして持ち合わせていないわけではないが、私にとっては、いわゆる「理系」から「文系」に足を踏み入れたターニングポイントであった。

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