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「くらしのアナキズム」から考える運動体としての組織

「くらしのアナキズム」、2021年の私の最もお気に入りの本である。前回書いた「災害ユートピア」と似ていて、国、既存のシステムやルール、制度にあまりにもあたりまえに従っているのではないか?一人ひとりが自立し、自分で考えて動くことを私たちは手放してしまっているのではないか?と問うている。

この本を読んでいると、私が運営に関わっているある組織について書かれているのではないかと思うくらい繋がりが感じられる。

その組織はちょうど先月10周年を迎えた。その組織の設立者は既に亡くなってしまったが、昔その方がよく言っていたのが、「〇〇(組織名)はね、ここの場所のことではないんだよ。私たちが作りたいのは運動体なんだよ。」と。つまり、たとえその場所が失われたとしても、その理念、信念を受け継いだ人たちが、それぞれが生きている場所で、それぞれのやり方でそれを実現していく運動体を目指すということである。

設立から10年が経ち、「場所」としてのその組織は幸いにも続けることができている。途中で強力な設立者を失ってしまったにもかかわらず、その後も続けてこられたのは、その設立者が組織を作ろうとしたのではなく、そこに集まった一人ひとりが自分で考えて動く運動体を目指していたからかもしれない。その方は運営会議の時には、答えが出ないような質問を、どう思う?と全員に意見を聞いていた。時間もかかるし、結論は??と思ってしまうのに、それでも不思議と運営はできていた。これは今振り返ってみると、『くらしのアナキズム』に書かれている、「コンセンサスに基づく意思決定」が実現していたのだと思う。

コンセンサスに基づく意思決定は、かならずしも「全員一致」ではない。それは、反対意見をもつ人がいても、その意見が無視されたり、排除されているわけではない、と思わせるような高度なコミュニケーションに基づいている。

松村圭一郎『くらしのアナキズム』p.143

このように運営メンバーで話し合う場が十分にあったから、意見がちょっとくらい違ってもケンカになることはなかった。むしろ良い議論ができた。年齢も全く関係なかった。それくらいお互い信頼関係ができあがっていた。松村の言葉を借りると、関係が耕されていた状態であると言える。

組織が設立されてからの10年を振り返ると、いろんな危機があった。設立者が亡くなったことも一つの危機であったし、みんなで食事を共にして語り合うことを行っていた私たちにとっては、コロナも大きな危機であった。でも設立者が残した理念にいつも立ち返るとともに、その設立者のやり方に学び、それを実現するためにはどうすれば良いのか話し合い、それまでの形に捉われずに活動していくことによって、先日10周年を迎えることができたのだと思う。

このようなコンセンサスに基づく意思決定を経験できた私は幸せである。これを実現できる組織はそう多くないと思う。でも私には確かにそれが実現可能な手段であると信じることができる。

ただ、運動体というものを考えるとき、「場所」というのは必要だとも感じている。運動体は「場所」に重点を置かない。究極的には「場所」がなくなっても、それぞれの人がそれぞれの場所で、理念を実現するために行動を起こすことで、その活動を続けることができると考えている。コロナ禍において、その可能性はさらに明確になった一方で、関係を耕すためには、物理的な「場所」は不可欠であることも浮き彫りになった。運動体としての「広がり」と関係を耕すための「場所」の大切さ。相反するように見えるけれども、自立することと、同じ思いをもった仲間どうしが同じ空気を吸い、繋がり、触発されること、そのどちらもが運動体を維持していくためには欠かせない要素であると改めて感じた10年の節目であった。

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