喋る便器があったとしてアナタは使いたいか?
例えば新型の便器が、アナタの排泄物を評価し、毎日コメントをくれるとしたらアナタはそれを使いたいと思うだろうか?
「ふっといのが出ましたね♪ 健康な証拠です!」
「色が少し濃いですね。辛いものを食べましたか?」
余計なお世話である。
オフィスのトイレで言われようものなら次の日から渾名は「バナナ」とか「焦げ茶」である。
2009年に展開された喋るトイレ
楽しい気持ちは誰のものなのか
極端な例ではあるが、多くのプロダクトで「よかれ」と提案されるものには上記のようなものが存在しているように思う。
「排泄するときに楽しい気持ちになれるように」という考えは否定されるものではない。また、「ユーザーのアクションに対してプロダクトがフィードバックをする」のも良いプロダクトには欠かせない要素だ。
その二つの観点から見ればリジェクト対象にはならないところが怖いところである。
味気ない言葉を楽しいものに
例えば「タスクの完了」は「完了」だと味気ないので「やったね!」という言葉にするのはどうだろうという意見が挙がったりする。
これまでに自分がそのようなアプリを使った時に「やったね」というボタンを押すことで楽しい気分になったことがあるか自問自答していただきたい。
少なくとも私はそういった経験がない。育児向けアプリではそのような表現を良くみる。しかし育児に疲れ、睡眠すら満足にとれない最中にピンク色でやけにテンションの高いアプリは私に快活でいることを強要しているのではないかとすら感じることもあり鼻につく。
「お役立ち情報」といラベルもそうだ。役立つかどうかはユーザーの利用シーンによって左右されるものであり、非常に主観的な意見だ。
ある時、あるユーザーにはそうかもしれないが、それがあてはまらないユーザーも確実に存在するであるはずなのに、誰彼かまわずに「お役立ち」と言ってもいいのだろうか。
開発者であっても利用者の感情は設計できない
アプリは想定される課題を解決できるようにと開発者が一丸となって設計、実装するものではある。しかし稀にその体験や感情までも思い通りにできているという錯覚を持つことがしばしある。
端的に言うと余計なお世話である。
わたしが元気があろうとなかろうと、生活費の振り込みは毎月行うもので、そこに良く分からんキャラクターが表示されたところで、やる気を得るかどうかはわたし次第なのである。放っておいて欲しい。
夫婦関係もまた、人それぞれであり、夫婦ごとに健全な距離感というものが存在する。
会話が多いか少ないか。それが健全なものであるかどうかはアプリには関係ないことである。夫婦が使うアプリだからといって楽しそうに、仲良くなれそうな文章設計は夫婦からしたら余計なお世話である。
道具とユーザーの関係性にのみ感情が存在する
プロダクトはあくまで道具であり、精神性を見出すのは設計者の仕事ではないのだ。
利用者が日々を道具とともに過ごすにつれて、道具との関係性が始めて出来あがる。車に名前をつけたり、クッションや収納を追加し居住性を高める行為がそれに該当する。
ここを計者が先まわりして、車に名前つけておいたり、クッションを付属していたらどうだろう。多くのユーザーは「そういうのは自分でやりたい」と思うのではないだろうか。
我々は何を提供して、何を提供しないのか
UXデザインは簡単に言うと「行動を設計している」と捉えられがちだが、そう万能なものではない。あるシステムを利用する中での体験に限定され、またそれがある課題を解決している前提もまた必要なのだ。
それらの前提に含まれないものはどうしたって設計者の手の内にはおさまらず設計しきる事は不可能である。
そして利用中の感情もその不可能の中に入るものだ。
開発者のできることは限定された状況の中で自プロダクトを利用してもらい、かつ適した便益を提供し続けるのみであり、それ以上を範疇に納めようと思うの少し傲慢な行為なのではないかと私は思う。
感情さえもプロダクトで思いのままにできると表現しているようなプロダクトが少しでも減り、利用者に委ねてくれるようなものが増えてくれたらいいな。
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