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パリ逍遥遊 世界のはざまと案内人

パリ逍遥遊 イスラム圏からキリスト圏では、トルコ・イスタンブールのアヤソフィアから、スペイン・グラナダのアルハンブラ宮殿とコルドバのメスキータへの旅であった。ともに、イスラム教建築からキリスト教建築へ、またはその逆を経て、「イスラム教の世界とキリスト教の世界のはざま」を見たわけだ。

アルハンブラ宮殿とメスキータ。両者ともに、他のキリスト教圏で見られる建築とは大きく異なった、しかしどこか共通点もあるような不思議な建築物だ。

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ところで、法華教に化城(けじょう)という逸話がある。こんな話だ。

大勢の人たちが砂漠の悪路を、宝を求めて歩いていく。道は険しく、人びとは途中で口々に不平をいい始める。これ以上は歩けない、悪路で前途多難だ、引き返そうと。その集団の道案内人はそれを見て、神通力で、道の途上に城を作り、人びとに言った。 あそこに城がある、しばらく滞在し休息しようと。皆は大いに喜んで城に向かった。皆が大いに休養し回復したのを見はからって、道案内人は城を消滅させて言った。諸君、宝の場所はもうすぐ近くだ、この城はみんなを休養させるために、私が仮に作った化城だ、と。一行はまた元気よく、宝の場所へ向かって歩き出した。しかし、道のりは遠い。

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私は旅先でこの「イスラム教の世界とキリスト教の世界のはざま」(又は、その他の異文化世界のはざま)を見ると、「なぜ人びとは、異文化の建物を取り壊し更地にして、自らの文化の建築物を一から立て直さなかったのか?」と不思議に思っていた。

この化城の話を思い出してピンときた。

すなわち、敵対する宗教圏を追いやった人びとは、いわば宝を求めて砂漠の悪路を歩く流浪の民だ。そしいて、前途多難な旅の途中で突如、見たこともない城が現れる。異文化の城なので、彼らにとっては化城ではあるものの、そこでしばらく滞在したくなるのは、その旅が困難であるほど、よく理解できる。

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転じて、一人ひとりの人生もまた、宝を求めて歩いてゆく前途多難な旅ではないだろうか。過去の人々が旅をしたように、我々もまた旅をしてゆく。人間は旅する動物だ。アフリカの森の奥地で木の実を沢山食べていれば満足ゆく生活ができたものの、なぜか捕食者がひしめくサバンナに繰り出し、西を向けば、真冬の生活はすこぶる厳しいヨーロッパに進出し、多くの犠牲をはらいアメリカ大陸を目指した。東を向けば、砂漠の悪路を陸伝いに、ついには極東の島まで歩いてきてしまった。

そんな祖先を持つ我々もまた旅をせざるを得ないのは、何かしらの「宝」を求め歩いて行く習性があるからだろうか。そして、数々の化城に出会っては、そこにしばらく滞在し、回復した後、また悪路を歩いて行くのだ。

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この化城の話、初めて聞くと何が何だか良くわからないが、こうして旅を重ねて魂を震わせる体験をすると段々と理解できる。一方で、この話を現代に反映させるとなると、「道案内人」とは誰か?という問題に直面する。

というのも、昔のように団体旅行で行き先はハワイということもなく、個人主義が進んだ現代は、個々人が旅のテーマや行き先を決めなければならない。化城を出してくれる道案内人はいないのだ。

一見すると不便なようだが、今までは旅行会社が考えた万人受けするような仮の物語を表面的に楽しんでいたのに対し、これからは個々人が旅の物語を考えることにより、心を震わせる体験をすることができる。そこで出会った化城は、(同じアルハンブラ宮殿でも)あなたの目にはさぞかし異なって写るだろう。

コロナ禍の中、気軽に旅行することも困難となった。法華教に出てくる道案内人としては力不足かもしれないが、「たゆたえども沈まぬ」パリを起点としたパリ逍遥遊の体験記は、特異な時代に驚きと感動を持って触れた「何か」を提供できるはずだ。

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