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テクノロジーが芸術のためにできることは何か

何か、としたのは、何かがあるはずだと信じているから。 この問いに向き合う最初の実験をしてみた。

科学未来館で私の芸術の未来は終わった

科学未来館に「未来逆算思考」というゲーム形式の展示がある。50年先の子孫に残したいテーマをひとつ選ぶと、スクリーンに自分のアバターが出現し、未来に向けて歩みだす。「芸術」を抱えた私のアバターは途中いくつかの困難に見舞われて、50年後の子孫には出会うことができなかった。代わりに届いたのは、文化芸術は破壊されてなくなり、新しい芸術も生まれない世界を生きているという子孫からのメッセージ。

驚きよりも納得してしまった。書道もそのうち廃れ行く文化のひとつなのではないかと、心のどこかで思っていたから。展示は問題提起に終わらず、今できることのヒントを与えてくれた。それがテクノロジーだった。

アナログはホンモノ?デジタルはニセモノ?

書道のようなアナログの文化芸術にとって、テクノロジーとは相反するものだと思っていた。墨のようなデジタルインクで、筆のようなデジタルブラシで、書のような作品を書いてみたこともあるけれど、それはやはり書のような作品でしかなかった。違和感のひとつは、どれだけ書道の稽古を積んでも、デジタルの世界ではまったく意味がないことのように思えてしまうことだった。書をデジタルで表現するためには、アプリとツールのスキルが必要で、それは普段の書とはまったく別物のように思えた。道具も違えば、書き方も違う。当然向き合う心だって変わってきてしまう。そんなことばかりがぐるぐると頭を巡り、テクノロジーで何ができるのかなんて思いつかないでいた。

自由は不自由の中にこそある

一年以上の休業期間を経て復職した3日目くらいに、一緒に本を作りましょうというお誘いを受けた。働く感覚を取り戻す間もなく、プロジェクトに参加することになった。

詳細を聞いて後ずさり。デジタルで制作した絵を発表しようというプロジェクトだった。私は絵が描けないし、デジタルで書もできない。

こっそりと辞退を申し出た。どれだけ自分がアナログであるかを伝え、説得するはずだった。なのに、なぜかアイデアが湧いてきて、気が付いたらなんだかおもしろくなっていた。そうして勧められるがままソフトをダウンロードしてペンを握っていた。

ルールの厳しさをテクノロジーで乗り越えたい

アナログでできることがデジタルではできない。そのことばかりを考えていた。文化を守るということは、続いてきたものを何も変えることなく美しく残すことだと思っていたから。もちろん形を守ることは重要なのだが、そもそも続けるためには、好きとか楽しいとか、そういう気持ちがないと難しい。そんな、気持ちに寄り添うテクノロジーの使い方はないだろうか。

それに今きっと書道は、何が楽しいのかわからないくらい遠い存在になろうとしている。ルールを盾に、その形を正面から問い続けても、ちょっといろいろ難しいのではないか。もっと根源的に、書くことの楽しさにアプローチしたい。そのためのテクノロジーの可能性を考えたい。

実験1へ続く。


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