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めぐる糸をたどり、織物の世界へ

 幼い頃に見てずっと頭から離れない光景のひとつに、機織りをする伯母の姿がある。

 薄暗く小さな部屋に置かれた木製の手織り機。赤や黄緑、白など色とりどりの糸が巻かれた小さな杼。木のペダルを踏むとタテ糸をあげる装置が「かしゃん」と小さく音をたて、次に、タテ糸に通したヨコ糸を筬で打ち付ける「トントン」という音が軽やかに鳴る。つやつやと輝く色とりどりの絹糸は、ゆっくりと、少しずつ織りなされて布へと変わっていく。

 何もかもがきれいで、織機に向かう伯母の姿までもが一枚の絵のようで、電灯が照らし出す部屋の埃さえ美しくて。半世紀近くたった今でも、静かな織部屋の様子がまるで映画のワンシーンのようによみがえってくる。



「あのとき伯母が織っていたのは、綴織(つづれおり)だったのではないか」
と、具体的な技法に気づいたのは、数年前のことだ。
 職人取材をしようと西陣織の職人さんたちに会い、その結果、ミイラ取りがミイラになって「いとへんuniverse」を結成し、西陣織の一品目である西陣絣(にしじんがすり)を伝える活動を始めた頃だった。

 そのころのわたしは、西陣織にはいろんな技法があることや、織機には手織機と機械織があることなどがうっすらわかってきた程度だった。綴織は12品種ある西陣織のひとつに数えられる。多色のヨコ糸でタテ糸を部分的にすくってくるむようにして織る技法で、手織りで紋様を織りなしていく。あのときの伯母は鶴を織っていて、手元には小さな杼がたくさん並んでいた。



「ねえ、恵美子おばちゃんが織ってはったのって、ひょっとして綴織やった?」

と母に伯母のことを聞いてみると

「そうそう、よう覚えてるなあ。きれいやったよねえ」

と、嬉しそうな返事が帰ってきた。
やはりそうだった。あれは綴織だったのだ。そして、母が続けた言葉で、またひとつ記憶の蓋が開いた。

「菊枝さんのほうは船屋で機械の織物してはったなぁ」

 恵美子おばさんは本家を継いだ伯父のお嫁さん、菊枝おばさんは近所に嫁いだ父の実姉だ。



船屋で知られる伊根町と織物

 伯母たちが暮らす父のふるさとは、京都北部にある伊根という町だ。とても静かな漁師町なのだけど、伊根湾に面して建ち並ぶ一階が船のガレージになっている「船屋」の景観に風情があり、映画の舞台になったり、雑誌の表紙を飾ったりして、わりと知られている町でもある。
 近年になって高速道路が整備されてアクセスがよくなり、レストランなどもできて観光客も多くなったけれど、わたしが幼い頃はとても不便で、ただただ辺鄙な場所だった。

 京都駅から宮津まで数時間列車に揺られ、そこからバスがわりの汽船で1時間ほど、いくつもの鄙びた漁村を巡りながらようやく辿りつく。本当に海しかない静かな静かな辺境の漁師町。あたりを歩いているのも知り合いしかいないから、どこの家も鍵をかけていなかった。それに、おばあちゃんは伊根の訛りが強くて、何を話しているのか子どものわたしにはほとんど理解できなかった。

 母の話によれば、恵美子おばさんの織り部屋は船屋ではなく道を挟んだ母屋にあったけれど、菊枝おばさんのほうは船屋の一階で織っていたという。そういえば菊枝おばさんの家にいくと船屋からガシャンガシャンと機械の音がしていたっけ。あれが織機だったのだろう。母によると、菊枝おばさんはおじさんが漁に出て帰ってくるまでの間、ずっと機械織をしていたそうだ。


 
記憶を掘り起こしたわたしに向かって、さらに母は知らなかった事実も教えてくれた。

「いとこの由美子ちゃんは、地元の織物工場で織り子さんしてはったんよ。すごく上手で会社に表彰されはったこともあったわ」

 うんと年上のいとこが、そんな仕事についていたとは知らなかった。恵美子おばさんとその娘である由美子ちゃんは頭が良くて几帳面だから、きっととても織物が上手だったろう。



 今となったらわかる。わたしの親戚のみなさんが織っていたもの、それらはどれもみな、西陣織だ。西陣織は京都の西陣で発展した伝統工芸の織物だけど、西陣織が産業として隆盛を極めていた昭和の一時期は、西陣の工場だけでは足りず、丹後地方でも盛んに生産が行われていたのだ。その勢いは、北の果ての伊根町さえ飲み込んでいたようだ。


 ずっと京都でライターを続けてきて、7年前に「自分のテーマとして工芸を取材したい」と思ったとき、京都に数多ある伝統工芸のなかから「まずは西陣織を取材してみよう」と思った。幼い頃にみた伯母の機織り姿が影響していると自覚はしていたけれど、まさか親戚の女性みんなが西陣織に関わっていたなんて。
 わたしが職人さんたちといとへんuniverseを結成し、西陣織や西陣絣を伝える活動をはじめることになったのは、実はすごく自然なことだったのかもしれない。運命の糸をたどり、西陣織と西陣絣の世界に呼び戻されたのだろう。

着物と京都人

 考えてみれば、京都の北の果ての田舎までそうなのだから、京都市内で織物に従事した人たちはきっとたくさんいただろうと思う。西陣を歩くとあちこちから織機の音が盛んにしていたという話もその時代のことだ。
 織物だけではなく、着物関係にまで枠を広げたらその数はもっと膨大だったと思われる。わたしの父は織物ではないが組紐の問屋に勤めていたし、母の妹は友禅染の内職をしていた。幼馴染のお父さんは着物の大きな商社の偉いさんだった。友だちのお父さんお母さん、近所のおじさんおばさん、たくさんの身近な大人たちが西陣織や着物産業に関わっていたに違いないのだ。



 だが、やがて、日本人は着物をきなくなり、西陣織は斜陽になった。同じ丹後でも与謝野町はいまも元気な印象だけれども、伊根町でいま西陣織の仕事をしている家がどこまであるだろう。少なくとも、わたしの親戚はもう誰も織物をしていない。
 わたしが関わっている西陣絣(にしじんがすり)も、職人さんがどんどん減っている。昭和の全盛期に300人はいたといわれているが、引退したりご病気になったりして、2020年現在は6人になってしまった。いとへんuniverseを一緒にやっている若手の葛西郁子ちゃんを除けば、70代がおひとり、80代が4人。深刻な後継者不足に直面している。

 正直なところ、西陣織はもうあの頃の隆盛を取り戻すことはないだろう。日本人が全員、普段から毎日着物をきることも、もうないはずだ。それでも、先人たちによってここまで磨き上げられた高度な織物技術や美しい和装文化をこのまま無くしてしまうのは、あまりにももったいないと思う。

 やはりとても良いものだし、そもそもテキスタイルとしてみても魅力的だ。それに日本の女性たちは、着物への憧れや和装を素敵だと思う気持ちをまだ失ってはいない。

 そんななかでわたしにできることは何だろう。ライターとして伝統工芸の職人さんを取材したり、仲間といとへんuniverseの活動を続けながら、そのことを、ずっと考えている。


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