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きっかけは保育園! 音楽を仕事にするまでの、音楽的ルーツから振り返る

インタビュアー/須永兼次

――まずは、大津さんが子供の頃どんな音楽に親しまれていたのかからお聞きしたいのですが。
大津美紀 私、親がよくテレビの歌番組を観ていたのもあってか、歌謡曲が好きだったんですよ。当時は『ザ・ベストテン』みたいな生放送の歌番組が結構あって、そこで聴いた、筒美京平さんのような方が作られたアイドルの曲がすごく好きだったんです。そういったメロディのセンスの部分は、今でも無意識的に影響を受けているんじゃないかなとは思っていますね。
――中学生ぐらいになると、洋楽にハマる人が多くなるじゃないですか? そういうことはありましたか?
大津 私はハマらなかったんですよ。アイドルのほうに行ったり、思春期に入った頃から曲を作り始めたのもあって。
――すでにその頃から作曲を!
大津 そうなんです。「日々抱えているこのもわあっとした感情を、なんとかせねば!」みたいな気持ちになって、私の場合は日記をよりも歌で残したほうが、振り返ったときにより鮮明に思い出せると考えたんですよね。
――ちなみに、その頃にすでに曲を作られていたということは、それ以前に弾くこともされていたりしたんですか?
大津 はい。私、保育園児の頃から22歳ぐらいまでエレクトーンをやっていまして。通っていた保育園にあった鼓笛隊でマーチンググロッケンをやっていたらしいんですけど、飲み込みが早かったのか、先生が親に私が音楽をやることをおすすめしてくれたんです。その後、親が音楽教室に通わせてくれたのですが、当時はまだ電子楽器がすごく珍しかったので、ピアノではなくエレクトーンを……。今につながるきっかけをくれたその先生には、本当に感謝ですね。
――エレクトーン以外にも、音楽にまつわることはやられていたんですか?
大津 そうですね。それと並行して、小・中学生のときは合唱をやったり器楽部でオルガンを弾いたりして。高校生になってからはミュージカルをかじったり、バンドの追っかけもしたり、あとは、シンセを使ってひとりで打ち込みもしていましたので、すっかり音楽家漬けの日々でした。でも、まわりに似たようなことをやっている仲間がいなくて(笑)。
――その当時は、テクノロジーの面も含めて今より家で音楽を作るハードルも高かったでしょうし。
大津 そうですね。インターネットだって文字だけの、まだ「パソコン通信」と呼ばれていた頃ですからね(笑)。でも音楽の仕事を始めたきっかけは、その中の掲示板で「作曲家募集」みたいなものを見つけたことだったんです。
――ということは、逆にそれを目にする前には「やりたい」という気持ちが芽生えていたわけですね。
大津 それはずっとありましたね。高校を出てからは音楽の専門学校に進学もしましたし……ただ、こう言うと「その頃から決めていたなんて、しっかりしてる」と褒めてくれる方もいるんですけど、私としては他に何ひとつ取り柄がなかったので、「これをどうにかして仕事にできなかったら、私はどうやって生きていったらいいんだろう?」みたいに、むしろ必死だったんです(笑)。それに当時は、他にやってみたいと思うようなこともなかったので。
――ただ、それまでの大津さんがそれまで一番打ち込まれてきたものが音楽だったとなると、それを仕事にしたいと考えるのは自然なことだと思います。
大津 そうですね。でも、「どうしたらなれるのか」がよくわからず(笑)。オーディションとかに送っても全然引っかからなかったので、でも、とりあえず音楽に関わる仕事をしたくて、CM制作の会社やレコード会社、あとは作家事務所にデモテープを送ったりしていました。

自分の限界を決めずに取り組んだことで、克服できたコンプレックス

――そして、先ほどおっしゃったようにパソコン通信をきっかけに、音楽のお仕事を始められました。
大津 最初は音楽作家事務所にお世話になっていました。スタジオに行って見学させてもらうだけのようなところからスタートして、だんだん楽曲コンペに出したりするようになりまして。デモを歌ってみたらそのまま採用になったのが、JR東海のCMのボーカルだったんです。

――それが最初のお仕事だったんですか?
大津 いえ、私はまだ学生だったんですけど、デモテープ持ってあちこちに営業とかをしていたのでいろいろと仕事はしていました。たとえば富士通の「エーベルージュ伝説」っていうゲームの主題歌の編曲に携わらせていただきましたし、それから、この「JR東海」のCMと近い時期に声優の折笠愛さんの「愛をかくせない」という曲の作詞もしましたね。でも、大きな歌のお仕事としては「JR東海」が初めてだったと思います。初めてのレコーディング現場で生演奏をする演奏家たちがずらりといて、私は一人ボーカルブースに入って録音、っていう、とても緊張しました。特に新人の頃は、恥ずかしいことも失敗もいっぱいありました。例えばCMのお仕事で、曲のデータをお送りしていざ現場に行ったら、秒数が足りなかったりとか……(笑)。
――それは、どう乗り切られたんですか?
大津 すっごいゆっくり演奏してもらったり、もう、必死でしたね……(笑)。そういう失敗をしながらも、「自分にはこれしかできない」という枠を自分自身に設けずいろいろと挑戦できてよかったと思っていますし、そうやっていろんなことをやらせてもらえる環境だったことには、本当に感謝しています。
――そういったCMのお仕事もされながら、歌モノ楽曲の提供も重ねられていきました。
大津 楽曲提供はコンペがほとんどですし……シビアな世界ですよね(笑)。でも、私は幸い自分でつくって持っていた作品、例えば飯塚雅弓さんに提供した、『新・天地無用!』というアニメのEDになった「かたおもい」という曲がありまして。これは学生時代に作った曲で、当時は本当にカセットテープでデモを提出したんですよ。この曲はそのまま採用いただいて、その後も飯塚さんには割と長い期間、楽曲提供させていただいていました。
――そういった提供楽曲を作る際に、特に心がけているのはどんなことですか?
大津 例えばキャラクターソングであればすごく明確に設定をいただくので、そういったものを踏まえはしますけど、「音楽で何かを表現する」ということに関してのマインドは、実は自分で歌う曲と同じなんです。逆に、自分で歌う曲となると作れる範囲が広すぎてしまうので、提供曲と同じように曲の中の主人公を想定したりと、曲をまとめるためにある程度枠を決めてから作るようにはしています。
――そこは違いではなくて、共通点なんですね。
大津 そうですね。ただ私、実は作詞に対しての苦手意識が結構あるんです。一時期はコンペを作曲だけに絞っていたぐらいです。もともと曲が先ではなく、歌詞から歌をつくるというスタイルで曲作りをしてきたせいもあり、曲がすでにできている作詞のコンペが本当にとおらなくて・・・(笑)。おまけに、私の歌詞ってわかりにくい、と言われることも多くて。。。でも、そうやっていろいろな人にいろいろなことを率直に言われたり、自分で自分の作品を客観的に聴くよう意識してきたからこそ、どうやったら「たった一度で聴く人に届く言葉を紡ぎ出せるのか」、そういうことの大切さ、そして自分には足りない面にもたくさん気づくことができまして。今ではそれを強く意識したうえで作ることが増えました。そうやって自分なりのスタンスが見つかったからか、ここ最近は作詞が楽しくて。大きな山は超えたのかな、と思っています。
――そうして楽曲提供をされてきたなかで、特に印象深かった出来事としてはどんなことがありましたか?
大津 ひとつは、とある声優さんの、キャラソンのレコーディングの現場にお邪魔したときのことです。その方は“声優”というお仕事を真ん中に置いていて、あまり歌いたくないというスタンスだったんですよ。でも、いざレコーディングが始まったら「キャラクターを演じながら歌う」ということをプロとして全うされていて……その姿にとても感銘を受けました。あとは、ご招待いただいたライブで自分の曲のイントロが流れた瞬間に「わー!」って歓声が上がって地面が揺れたことも(笑)、忘れがたい経験でした。
――大津さんが楽曲提供された方でその反応というと、田村ゆかりさんのライブが最初に思い浮かぶのですが……。
大津 ありがたいことにそういうことはよくあるようですね。SNSが発達した今だったら「最近この曲作りました」という投稿をすれば反応もいただけますけど、それまでは聴いてくれる方の声を感じられるような経験がほぼなかったので、「こんなに喜んでくれるのか!」とすごく励みになりました。

大津美紀の経歴詳細

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