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安政の大獄『風雲児たち』

安政の大獄とは明治になってから定着した言葉であり、それ以前は「飯泉(いいいずみ)喜内事件」などと呼ばれていた。

飯泉は水戸と上方を頻繁に往復し、攘夷志士との連絡係を務めていた。

捕らえられた橋本左内は越前福井の奥医師の子であり、幼少から神童の誉れ高く、15歳にして自己規範の書「啓発録」を著し、翌年適塾に学ぶ。
頭角を現し村田蔵六の跡を継ぎ10代で塾頭となる。
藩主松平春嶽に呼び戻されると士分に取り立てられ、藩主の側近となって江戸出府、開明派として国事に奔走した。

評定所の出した遠島の判決を井伊直弼は死罪に書き換えた。これには江戸南町奉行の池田頼方も承服できず、食い下がったが、左内こそ将軍家転覆を企てした張本人であると井伊は一喝した。
判決が下ればその日のうちに刑が執行される。

検視役人の
「存念あらば申すが良い」
との言葉に左内は

「ほんの少しお時間をいただきたい。心静かに逝きたくござれば」

と答えた。

「時間にして1分と少しの間、細い肩を震わせ、彼は声もなく慟哭した。

首打ち人も検視役人も
その場にいる
誰一人
左内を不覚の武士とは思わなかった。

自らの命を愛おしむ
この26歳の若者の姿に人々は黙って共感したのである」

左内刑死二十日後、吉田松陰も29歳で刑死。遺体を引き取りにきた桂小五郎たち四人は甕に入れられた師が全裸であることに憤慨する。実は着物を剥ぐのは死骸を始末する者の役得であった。
桂たちは自らの羽織や肌着を脱ぎ、師の遺体を整えた。

この時に一番泣いたのは最年少の伊藤俊輔であったという。

遺体は小原塚刑場の奥にある回向院の橋本左内の隣りに埋葬された。

安政の大獄が(のちにいくら幕府の権威が失われていたとはいえ)現在でいう総理大臣の井伊直弼暗殺の桜田門外の変に繋がるのはご存知の通りである。

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