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「日々ごはん」

4月28日(水)

朝5時まで起きてしまっていたので、7時頃一旦起床して、娘がフルーツグラノーラを用意しているのを見て、また寝室に。
もう少し寝かせてもらう。

お昼前に起きて、洗濯、掃除、お昼ごはんの用意。
ここ最近は、家庭科の授業だと娘をだまして(?)洗濯物を干すのを手伝ってもらっている。これがとても助かる。

明日は、夫が休みなので、娘は夫と「とうふちゃん」のファッションショーをして遊ぶつもりらしい。
「ママ、とうふちゃんのスカート作れない?」
「むり〜。本なら縫えるけどね」
「本じゃないし」

ということで私とは影絵遊びをしてくれた。

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私が裁縫が嫌いなのは、ちょっとした原因がある。
私の母は、裁縫が好きでセーターやら、ワンピースやら、バッグやら、私が子どもの頃、色々作ってくれていた。

強烈に覚えていることがある。
小学1、2年生の頃、母は機械編みに凝り、セーターを編んでくれた。私は、当時、外で走り回ったり、茂みの中に入ったり、塀をよじ登ったりと活発だった。気付いたら、セーターはお腹のところでぱっくり、口を開けたかのように上下に分かれていた。おそらく、どこかにひっかけたのだろう。

家に帰って怒られたのかははっきりとは覚えていないが、
「せっかく編んだのに」とか「難しかったのに」とかぐちぐち言われ続けたのは記憶にある。
なんだかすごく嫌だった。
作ってってお願いしたわけじゃないし、気に入っていたわけでもない。
申し訳ないが、押し付けられ、着せられただけだった。

その頃から、家庭科の授業がある日は体調が悪く、気持ち悪くなった。家庭科の授業だけさぼったりしていた。

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今も、誕生日だなんだとかこつけて、母が勝手に作ったバッグやらが送られてくる。それは、本当に申し訳ないけれど、私の好みでは全くなく、使う機会はない。何度ももうやめてくれと言っているが聞く耳を持たない。
その上、喜ばないと不満を言われる。

どこかで、料理や裁縫は、それによって恩恵を受ける子どもは、押し付けられたり、支配されたり、有り難さを感じなきゃいけなかったり、やってくれた人が満足するようなリアクションをしなきゃいけないものだと思ってきてしまった。
だから、自分はしたくないという気持ち(それ以前にうまくできない。)が強い。
なかなかひどい考えだと自分でも思う。


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「日々ごはん」 高山なおみ 著 アノニマ・スタジオ発行

いつ頃読んでいたのだろう。「日々ごはん」①〜④までがあった。
本日からまた読んでいる。

料理家の高山なおみさんの「ふくう食堂」というホームページで書き綴られていた日記が本にまとめられたものだ。

①は2002年の2月からはじまっている。
まず表紙がとっても好き。

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会ったことのない女性の日記なのに、読んでいてすごく心地よい。
飾らず、隠さず、登場してくる人物は説明もなく「〇〇くん」や「○○ちゃん」だったりするけど、それも読み進めていくうちにまるで自分の知り合いかのように感じる。

家族の描写が、当時の私には新鮮だった。結婚して、子どもが出来てではない様子の家族。

今、何の本を読んでいるかが日記の中によく出てくるし、朝まで本を読んでいてお昼まで寝てしまった。とか大好きだ。
食べ物がどれもおいしそうに感じてしまう。
料理家だけど、お昼にサッポロ一番の味噌ラーメンを食べた。とか出てくるところが好き。レシピも書かれているのだけど、日記と同じように、まるでメモ書きみたいに書かれている。なんだか私でも作れそうな気にさせてくれる。

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毎日を日常として暮らす、そこに料理や家事や仕事がある。
全ては同等につながっていて、それは、押し付けたり、押し付けられたり、誰かの為でなく、毎日を生きていく為の積み重ねだ。その当たり前のような日々の中にこそ切実な大切なものが詰まっている。
そんなことをこの本が教えてくれた。

すっかり忘れてしまっていた。
偶然、昨日、ダンボール箱の奥から見つけ出してきたこの本。③は読みかけだったのか、表紙部分であるページを挟み込んでいた。

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開くと、2003年4月28日の日記だった。
「三時に起きて風呂に入り、それからはずっと本を読んでいる」
とある。それでいいんだ。ふっと肩の力が抜ける。
自宅に閉じこもっている今、読み返したい。

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