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『「聴く」ことの力』

5月8日(金)

昨日は、娘の小学校へ。
5月31日まで休校が延期になり、その間の課題を受け取りに行かなければならなかった。学年、クラスごとに、時間を設定し、ドライブスルー形式で渡される。

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貰ってきた課題は、国語、算数、理科、社会、英語、音楽、図工、道徳、総合
日常生活のリズムを崩さないようにと、時間割が決まっている。

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8時30分に、朝の会をして、健康観察カードを記入し、授業を開始するのだそうだ。

子どもによって学習内容に大きな差がでないように、「家庭でも新しい教科書を中心とした学習を進めるように」と文科省から指示が出ているのだそう。

要するに、親に教師の仕事をしろということだ。
自宅で仕事をしている親も、この状況でも仕事へ出かけなければならない親も、8時30分〜13時55分まで、つきっきりでできるわけがない。
そもそも、親は教師はできない。

3ヶ月にもなる学校の休校で、子どもたちに本当に必要なことは何だろうか?
教科書での学習? ドリル? 学習内容に差がでないことなのだろうか。
全ては、大人の都合、学校の都合、教師の都合のように感じる。
今、子ども達が何を考え、何を不安に思っているか、誰も聴いていない。
私の娘の小学校の場合だが、先生から電話も手紙も一度もない。
週一回通っている英語教室の先生からは、お休みが延長になる度にお葉書が娘宛で届いている。先生からのメッセージと共に、「ここをやってみて」などアドバイスもある。

なぜ、今この状況で学校が休校なのか、なぜ延長されていくのか、
なぜ外で遊ぶこともだめなのか。
これからの学習や行事を学校はどう考えているのか。
子どもへ向けて誰も発信してくれない教育現場とは、一体どこを向いて仕事をしているのだろう。

私が思わず、
「これって、このお休みの間、先生達は何のお仕事をするんだろうね?」
と言ったら
「苦手なマスク作ってますってよ」
と娘が即答した。
先生が言っていたのかと思ったら、毎月配られる、1ヶ月分のスケジュールの書いてあるプリントに、各クラスの先生の挨拶という欄があり、そこに書いてあるという。集金についてや、その月の学習についてなどが書かれている、本来は親用のプリントだ。
見てみたら、確かに書いてあった。
もちろん、「みなさん元気ですか?」とか「もう少しお家で頑張りましょう。」という言葉もあるが、、、
「先生は、ギターの練習をしています」
「先生は苦手なマスク作りをしています」
「先生は余っている木を切っています」
というメッセージだった。

せめて、
「今は、お家で学習してもらう為にプリントを配るくらいしかできないけど、みなさんにとってどうしたらいいのかを先生たちも一生懸命考えています」
くらい書けないものか。

子どもはちゃんと、自分たちへ向けてのメッセージが書いてあるところは読んでいる。自分たちへ向けて書かれていないものも、わかっている。


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『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論ー』 鷲田清一 著 植田正治 写真
株式会社筑摩書房 発行

本書は、聴くことの哲学についてではなく、聴くこととしての哲学の可能性について書かれている。
「哲学はこれまでしゃべりすぎていた・・・・・」からはじまっていく。
「語る」ではなくむしろ「聴く」ことをこととするような哲学のあり方が綴られている。「聴く」というのは、語る側にとってはことばを受けとめてもらったという、たしかな出来事になるのだ。

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R・D・レインという精神科医が「自己と他者」(志賀春彦・笠原嘉訳)の中で報告されている話があるという。
ある看護師が1人の分裂病患者の世話をしていた。顔を合わせて、しばらくしてから、看護師は患者に一杯のお茶を与えた。この患者はお茶を飲みながら、
「だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです」と言った。
実際に、お茶を入れてもらうことがはじめてだったのではなく、
人に求められたからでなく、業務としてでなく、「だれかのため」「なにかのため」という意識はなく、ただある人とお茶を共にすること、それ以上でもそれ以下でもないそういう風に他人からお茶をいれてもらったとこの患者が感じたことがこれまでになかったということだ。とレインは解釈したのだという。

すごく好きなエピソードだ。

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あとがきに「学校」についての記述がある。
臨床哲学の定例会に発達心理学の浜田寿美男さんを招いて「学校」という場所をテーマに講演をしてもらった時の質疑応答の中でのお話だそうだ。
学校では、人を験している。験す(ためす)とは、自分が知っていることを他人に問いただすということだそうだ。
学校では、自分が知っていることを訊くということが当たり前に教師から生徒へなされている。生徒は、当たるか当たらないかというかたちで答えを意識する。

知りたい、伝えたい、という人と人との関係が、験す、当てるという「信頼」を一旦停止した関係にすりかえられてしまっているという。

学校は子どもたちに「生きるかたちを教える場」とはなっていない。
という内容だ。

本書の「臨床哲学」とは?と調べてみたら、
現実社会の具体的場面で生じているさまざまな問題を「治療」という観点から、「医者」ではなく、むしろ「患者」の立場に立って考えていこうとする哲学的活動を指している。
と出てきた。
まさに「聴く」ことをしないと患者の立場に立って考えていくことはできない。

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本日の娘は、雑誌を切り抜いたページを並べ、何やら、数えたり、ノートに書き込んだりしている。
「何をしているの?」
「調査だよ」
なんの調査?と聞いたら、どのキャラクターが1ページごとに何回出てくるかを全て調査しているのだという。
それが一体何になるのか、何の生産性もないように思えるが、
彼女は真剣に、1日中やっている。
学校からの課題をやらせるより、この調査を思う存分やる方が、彼女にとっては何かしらの生きていく力になるのではないかと思った。


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