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当館収蔵の作家紹介 vol.6 平山郁夫(ひらやま いくお)

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当館には近代の日本美術を代表する作品を数多く収蔵しています。展覧会を通じて作品を見ていただくことはできますが、それがどんな作家、アーティストによって生み出されたものなのか。またその背景には何があったのか。それらを知ると、いま皆さんが対峙している作品もまた違った感想をもって観ていただけるかもしれません。
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この連載で今回取り上げるのは平山郁夫氏。名前を聞いただけで多くの方がすぐに作風を思い浮かべることができるのではないでしょうか。題材はその生涯で少しずつ変わっていきましたが、仏教、シルクロード、そして日本の文化遺産などでした。
平山氏がシルクロードの文化と出合ったのは1996年の東京藝術大学第1次中世オリエント遺跡学術調査団への参加だったとか。仏教伝来の道を辿ることが日本文化の源流を知ることにつながるという考えは折にふれて語られてきました。しかし、それと同時にさまざまな宗教や人種や文化が交差していたかつてのシルクロードの平和な風景に被爆体験をした画家ならではの希望を重ねていたようです。またもうひとつの題材である日本の文化遺産を描くことについては「日本人は古代から自然と調和するように生きてきました。自然の借景を活かし、建物と風景が一体となるような日本人の造形感覚は、西洋の幾何学的な見方とは明らかに異なったものです」(平山郁夫美術館HPより)と語っています。満潮の海面に姿を映す厳島神社や夕景の薬師寺などどれも自然との調和が心に残ります。当館では月の光を受け静かに佇む薬師寺を描いた作品を収蔵しています。

平山氏の作品は、2023年8月31日〜2023年11月25日の展覧会『日本の技と美 』文化勲章受章者作品展 Ⅱ(1980-2021)でご覧いただけます。
本展は2021年に開催した文化勲章受章者作品展の第2弾となります。


平山郁夫は広島県に4男5女という今だとテレビで特集されるほどの大家族。郁夫は上から3番目、次男として生まれる。そして1945年(15歳)被爆。その被爆体験を描いた絵も残している。1947年(17歳)東京美術学校に入学。前田青邨に師事。卒業後、同じクラスの松山美知子と結婚。この美知子は平山よりも成績がよく首席で卒業しているが彼をサポートするために画家としての活動をやめる。ちなみに平山は2位。その後、院展の常連となる。1959年(29歳)に三蔵法師をテーマにした「仏教伝来」を描きあげ、その後の道を決定づける。平山郁夫を語る上で外せないのが仏教とシルクロードである。人間の本質を仏教に見て、人が積み重ねてきた文化の堆積を感じさせる悠久の時間を絵の中に閉じ込めていく。これらの絵を描くために何度も現地を訪れている。インドや中国はもとより、ネパールやウズベキスタン、タジキスタンなど当時はソビエト連邦で日本から行くことが困難だった場所にも足を伸ばしている。三蔵法師が旅したところを辿るようにタクラマカン砂漠からヒマラヤなども訪れている。スケッチ旅行というより冒険家のような壮絶な旅だ。アフガニスタンでは銃を突きつけられたこともあったと本人も語っている。文化庁やほかの遺跡研究の他の大学研究室らとも行くことも多かったという。これらの取材を通じて絵を描くだけではなく、文化として遺すことにも尽力している。アンコールワットや敦煌、南京城壁などの保護活動などにつながっていく。これらの厳しい取材旅行の準備や計画、記録などはすべて妻の美知子が献身的にサポートしてすべてが記録として残っている。1973年(43歳)から東京藝術大学教授に就任。1989年(59歳)学長になり1995年(65歳)まで務める。2001年(70歳)大学の独立行政法人化議論や国立大学の統廃合が話題となり東京藝術大学学長に返り咲き再登板。2005年(75歳)まで努めている。1998年(68歳)文化勲章を受章。

                                      [企画・編集/ヴァーティカル 作家紹介/あかぎよう]  




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