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「理不尽なこと」は起こらない ~主語を変えて考える~

毎日生活をしていれば、色いろな人と繋がりが生まれ、色いろなことが起きる。何かが起きた時に「理不尽だ」と感じることがあるかもしれない。でもそれは本当に「理不尽」なのだろうか。「理不尽」であるとラベルを貼ることで考えることを放棄していないだろうか。 


「理不尽」を辞書の意味から考える

まず、理不尽の意味を調べてみる。デジタル大辞泉に載っているのは、以下の通り

[名・形動]道理をつくさないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。「—な要求」「—な扱い」 

デジタル大辞泉

道理の意味はこちら

[名・形動]
1 物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。ことわり。「—をわきまえる」「—に外れた行為」
2 すじが通っていること。正論であること。また、そのさま。「言われてみれば—な話」

デジタル大辞泉

これを考えていくと、「正しいすじみち」や「正論」とはなんだろう、それは誰が決めているのだろう、ということに疑問が出てくる。 

「正しい」は人それぞれ

「正しいすじみち」や「正論」は、人やタイミングや場合によって変化をするものだと思う。つまり、10人いればそれぞれの「正しいすじみち」や「正論」がある。自分が理不尽だと感じたのだとしたら、自分から見た「理不尽」な出来事であって、相手から見たら「理不尽」な出来事ではない可能性があるのではないか。誰を主語に据えるかで解釈が変わることを、常に自分目線である「理不尽」というたった一言で終わらせてしまうのは少しもったいないような気がする。
それは、この「理不尽」な出来事を経験することで、相手への理解が進むことが十分に考えられるからである。

私が高校で経験した「理不尽」 

私がなぜこのことをnoteに書こうと思ったかというと、私が高校で体験した出来事を中学生にお話しする機会あり、その時にこのことに触れたからだった。

私はインターハイに出場するために入学した高校で、日々「理不尽な」「指導」を受けた。(最終的に退部し学校も中退した)。

私たち1年生は日々「理不尽」な「指導」という名の身体的精神的体罰を受けていたが、今になって振り返ってみると、先輩は先輩で「理にかなったこと」をしていたのだ、と考えるようになった。部活の中では、3年生が1年生を「指導」し、顧問の先生が3年生を「指導する」という構図だった。当時は3年生の先輩を恨んでいたのだが、振り返ってみると、顧問の先生から自己防衛をするために1年生を恐怖によって支配しようと3年生は1年生を「指導」していたことがわかる。なので、この「指導」を無くそうと働きかける場合は、顧問の先生が3年生にする「指導」をする「理」を確認することが必要だったのだと今になって思う。
わかりきっていることだが、もちろん「指導」としての身体的精神的体罰はあってはならないもので、顧問の先生も3年の先輩がしたことも許されることではなく、私も許すつもりはない。だが、自分にとっての「理不尽」を解消するために相手の「理」を想像することは、時に課題の解決に役に立つのではないかと思う。
そしてその相手の「理」を想像しても距離を置くことが良いと判断すれば、距離を置けば良いのだ。

と、このようなことを中学生にお話ししたが、少し困った様子にも見えた。もう少しマイルドに伝えられればよかったな、と少し反省したが、お話しをさせていただいた中学生には、想像力を働かせながら日々を過ごしてもらいたいと思ったのであった。

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