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「逃げ癖」という一度罹ると治らない「死に至る病」について


逃げるは恥だが役に立つ

とは、一時期話題になった某漫画原作かつ、某新垣結衣、某星野源主演の某人気ドラマのタイトルにも使われたことがあるハンガリーのことわざだが、基本的に逃げ癖がついて良いことなどない。

「逃げ癖」はその名の通り、逃げる癖である。事前に記載しておくと、俺は逃げ癖罹患者である。

俺個人としては逃げ癖はもはや精神疾患レベルに悪質だと思っているし、重度の逃げ癖罹患者は高確率でなんらかの精神疾患を併存していると勝手に結論している(n=1)。
そのためこの記事の内容も大いにバイアスが掛かり、不正確かもしれない。とはいえ、人生を語る論理とは大半において不正確なものであり……(逃げ癖発動)

さて、上記の文章を見てみればわかるように、俺のような逃げ癖罹患者は基本的な認知が歪んでいる
歪んだ認知からは歪んだ結果しか得られず、歪んだ結果からは歪んだ現実が生み出される。
このようにして逃げ癖罹患者は人生という名のレールから爆裂暴走特急列車と化して外れていき、森の中に消えていくのである。森の中に消えたあとは虎にでもなって月に咆哮でもして消息不明になるのであろうが、詳細は不明である。それでも続きが気になるのならば1300年前にタイムスリップでもして作者のおっさんに聞いてくると良い。

逃げ癖の実例

自分の逃げ癖について書くのは正直かなり恥ずかしい。とはいえ「命長ければ恥多し」とも言うし、具体的な逃げ癖の例があった方が、読者的には逃げ癖の例がわかりやすいだろう。箇条書きで書いてみよう。

  • 現実の人間関係が続かない。なぜならば嫌なことがあれば逃げるため

  • 学業、仕事などのあらゆる社会的活動から逃げる。なぜならば失敗が怖いため

  • 挑戦を避ける、あるいはしない。なぜならばそもそも挑戦しなければ失敗しないため

  • 心のどこかでは「まだ逃げても大丈夫だろう」と思っている。しかし現実は迫る

  • 逃げた後は罪悪感でいっぱいになる。だが逃げる

書いてみて思ったが、まさにどうしようもない人間である。

戦略的撤退

もちろん人生において、戦略的撤退をしなければならない場面は往々にしてある。撤退を転進と言い換えて失敗を認めず、結果的に大敗を喫した旧軍の姿は日本国民ならばよく知るところであろう。

わざわざ歴史的に表現しなくても、目の前の問題をどうにかしようとする時、人間には2つの選択肢があると言える。

「向き合う」「逃げる」である。

このどちらを選ぶかはさほど重要な話ではない。なぜならば問題の難易度や状況、自分の能力をどう見極めているか、そういった要素が複雑に絡み合って我々は意思決定をしている。

とは言っても分かりづらいので、次の章では単純化して話をする。

ピクニックをしていたらホッキョクグマ🐻‍❄️が現れた!


例えばあなたが地元の森にピクニックに行ったとしよう。そこに突如ホッキョクグマ🐻‍❄️が現れた!しかもこのホッキョクグマは北極ではない場所にいきなりワープしてきたショックからか、目の前のあなたを殺る気マンマンであることが一目で理解できる。

この状況ならば大抵の人間は「逃げる」選択肢を選ぶことが正しい。これこそが戦略的撤退である。
もちろんホッキョクグマは時速40kmで走れるので、あなたは高確率で食い殺されるであろう。とはいえ、戦いを挑むよりも逃げる方が生存確率が上がることは間違いない。

しかしそれはあなたが凡人だった場合の選択肢であり、もしあなたが米軍特殊部隊で訓練を積んだ経験を持ち、常に20式小銃と防弾チョッキ3型で重武装し、「ホッキョクグマハンター」を名乗って絶滅危惧種のホッキョクグマを狩り尽くすことに人生を捧げているような異常者だったならば、戦う選択肢を選ぶ方が生存確率が上がりそうである。

さて、以上の例は全くの極論だが、別にホッキョクグマに限らずとも、人間はありとあらゆる状況下において選択を迫られている。なんども書いて申し訳ないが、この2つである。

「向き合う」「逃げる」

先の(極端な)例にも示した通り、どちらの選択肢を選ぶかは自らの能力、環境、状況、そして運に作用される。
一般的に、人間は苦悩しながらもこの2つのどちらかを選択しながら日々を生きている。

逃げ癖罹患者の選択肢

ある選択を迫られたとしよう。先ほどのホッキョクグマの例は忘れるとして、この選択肢では「向き合う」を選んだ場合、40%の確率で成功すると仮定する。

40%の確率は多くの人間が悩むところだろう。なにしろ非常に微妙な確率である。向き合ってもいいかもしれない。もし失敗したとしても、失敗から得られる経験もこの先の人生において役に立つかもしれない。

しかし重度の逃げ癖罹患者は違う。
逃げ一択である。

40%なんてやってられるか!失敗したらどうする!せめて80%……いや85%ぐらいの成功保証がないと向き合う選択肢は選ばないぞ!……よく考えたら85%もちょっと心細いな……。90……いや95は欲しい……。

そもそも逃げ癖がついた人間は確率など考えない。なぜならば全ての選択肢の第一候補に「逃げ」があるからである。

常に心の中の「逃げ」のボタンに指を置いており、高橋名人もびっくりするほど迅速にボタンを押すし、連打する。
心の大部分を「逃げ」の選択肢で埋め、常に逃げ方を探しており、むしろ問題に遭遇した時点で逃げた後のことすら考えている。

これこそが逃げ癖である。

逃げること自体は悪くない

当然だが、逃げること自体は悪くない。散々この記事で語ってきたように、往往にして逃げなければいけない場面は多い。全ての選択肢に「向き合う」を選べる人間はただの蛮勇の持ち主か完璧なる天才のみである。

長い人生、何度も連続して逃げなければならない場面なども存在するだろう。そんな時に「自分はダメな人間だ」と責める必要はない。人間は選択肢を誤る動物であり、苦悩する動物である。そして反省し、改善できる動物でもある。

例えば学校でいじめられていた。そんな状況で逃げることは悪くない。これは環境の問題である。
例えば会社でパワハラを受けていた。これも逃げてもいい案件である。
例えば毒親に虐待されていた。今すぐ逃げてほしい。

我々は40億年前の生命が誕生した時点から、失敗と適応をひたすら繰り返してまるで病原菌かゴキブリかのようにしぶとく生き残ってきたサバイバーである。
隕石が降り注ぎ、氷が地球を覆っても、我々生命は絶滅しなかった。多様性を確保することによって大多数が死に絶えても少数は生き残るという偉大なる生存戦略と偶然と運によって、我々人間はいまこの場でスマートフォンを手にして、この謎の文章を読んでいるのである。

それならば逃げ癖のなに悪い?

逃げることが本質的に悪いことではないならば、逃げ癖の何が悪いのだろう?

逃げは悪くない。癖がつくことが悪いのだ。

癖というものは生物に備わっている壮大かつ偉大な手抜き機構である。
守株待兎ということわざを知っている人は多いだろう。韓非子というコミュ障だが文章を書くのがやたら上手いおっさんが記した逸話だが、一応説明しておくとこういう話である。

昔、中国にある農民がいた。
ある日、いつものように畑を耕していると、切り株にウサギが頭をぶつけて、死んでいるのを見た。
農民は何もせずにウサギ肉が手に入れて有頂天。その日はウサギパーティである。
次の日、農民は畑を耕すのを辞めてひたすら切り株を見守った。一度起こったことならば二度起こらないことはあるまい。働かずにウサギパーティを開けるならば最高である。
しかしいつになってもウサギは切り株に頭をぶつけて死ぬことはなく、何日待っても何年待っても同じことが起こることはなかったという。
それを見て古代中国電子掲示板Baiduでは「【悲報】ウサギ待ち男、まだ待っているwww」などのクソスレが立ちまくり、コピペにもなって、書籍化され、ドラマ化され、2000年以上ものあいだ世界中で馬鹿にされたという。

出典:俺の脳内記憶

さて、これは悪癖の代表例だと言えるだろう。
しかし癖もそう悪いものではない。例えば英単語を1日100個覚える癖がついたらならば、それは英語学習をする人間にとっては良い癖ということになる。

同じことを繰り返して利益を得ようとする。これこそが癖の原理であり、最小限の労力で利益を得ようとする、生物の本能に則った正当な生存戦略である。

そのために、ありとあらゆることが癖になりうる。ある人は困った時に鼻を触るのが癖になってるかもしれないし、またある人は爪を噛むのが癖かもしれない。これらは大して有害ではないが、あまりにも強迫的だと身体集中反復行動症という立派な病名がつくことになる。

さて、このように良い方向にも悪い方向に運ぶことのある癖だが、その中で俺が質実に問題視している癖が逃げ癖であることはこの記事をここまで読んでくれている読者諸君には明白であろう。

逃げ続けた先には何もない

悪癖の中でも逃げ癖がことさら悪質なのは、人生が破滅することである。これは他の悪癖と比べてもデメリットがデカすぎる。爪を噛む癖があったとしてもなんかピリピリしたものを剥がす時に困るとかそのぐらいである。
しかしながら、逃げ癖を発症すると、人生が文字通り終わる。
一般的に、逃げ続けた人間が辿る人生は大同小異であると言える。

逃げ続けた結果として「どうせ失敗するんだろうな……」という諦観に繋がり、さらに逃げる。逃げた先にはろくな選択肢がなく、もっと逃げる。もっと逃げた先ではもはや癖になっており、ありとあらゆる選択肢で逃避を選択し、全てから逃げる。

さて、ここまで来れば重度の逃げ癖罹患者と言えるだろう。もはや人生はボロボロであり、子供の頃に見た夢は絵に描いた餅どころか、絵自体がキャンプファイヤーの火種に使われている。

そして最重度逃げ癖罹患者が辿り着く最終的な末路が学習性無気力である。

学習性無気力にまで達すると、「向き合う」「逃げる」という2つの選択肢を、もはやどちらも選ばない
ただ選択肢の前に立ち尽くし、選択肢が過ぎ去るのを待つ。向き合うのも怖い、逃げるのも怖い。それならばただ耳を塞いで、目を閉じて、ただやり過ごせばいい、というわけである。
これが逃げ癖の最終進化系であり、今風に言えばメガ進化である(ポケモンは銀しかやってないのでよくわからない)

それは「逃げている」のか?という疑問が聞こえてきそうだが、逃げ続けているのである。選択から。自由から。可能性から。そして人生から

解決策

(この項目は削除しました)

結論

というわけで逃げ癖は極力つけないようにしていこうという記事であった。解決策と対処法についてかなり力を入れて書いたのだが、正直俺自身が逃げ癖を克服できていないので意味がないと思い、削除した。いちおう認知行動療法が有効的だと思っているが、治療するということからも逃げるのでもうどうにもならない気がする。

俺の結論はもはや諦観の感はあるが、この記事を読んでいる読者諸君の中に逃げ癖を克服できた人がいたならば教えて欲しい。

まあ、楽しく生きよう。


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