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月島の質屋へつなぐマクラ

東京へ戻ったのは2010年の秋だった。FUKUSHIMA2011の半年くらい前だった。サンスクエアビルが建ったのは1995年だから15年目だ。家内が一時、母と時間を分けて店をやっていたから、僕も顔を見せることがあった。でもシンガポールで起業してからはすっかりご無沙汰になっていた。
そんなサンスクエアの前に立ってびっくりしたのは、周辺がビルだらけになっていることだった。
特に、サンスクエアの隣に区営アパートと中央区立勝どき保育園そして中央区立子供家庭支援センターが建っていたのに驚いた。
ここには、風呂屋と質屋と都営交通の定期とかを売ってた店が有ったのに・・きれいになくなってる。
隣のヤマニのオヤジさんに聞いたら「2~3年前だよ。月島浴場が無くなってからもしばらくそのまンまだったけど、でき始めたらすぐに出来たな。」
「都営交通の定期売り場がありましたね?」僕が聞くと「このビルの一階にあるよ。もうやってないけど」と言われた。
試しに見に行ったら、確かにうなぎ屋の横、一角に小さな表示は出てた。でもやってはいなかった。
そんなビルが立ち並ぶ近所を、もの珍し気にお上りさん気分で歩いているとき、実はすごく気になるものを見つけた。
ビュータワーに併設されている月島第二児童公園のところ・・「平和のモニュメント」なる・・如何にも共産党議員が推し進めそうな並んで立ってたんだ。
なんじゃこりゃ。ここに建てるなら「水上小学校の碑」だろう。ここは住所を持たないダルマ船で暮らす人々の小学校が勝どきに有ったところだぜ。碑を建てるなら辛酸をなめた児童たちの「学びの舎」が此処に在ったことを記憶として残すための碑だろう。・・そう思ったんだ。「はしけの子供たち」は学校を卒業すると、すぐさま「水上特攻隊」として民間船で仕用された。物資輸送用の民間船で下働きをしたんだ。そしてそんな民間輸送船は見つかり次第、連合軍に有無も言わさず片っ端に沈められた。・・必要なのは平和ボケした象徴みたいな「平和のモニュメント」ではなく、船と共に海の藻屑となった若い命への鎮魂碑だろう・・と思った。

たしかに勝どきは豊かになった。
僕が中学高校時代を過ごした呑屋通りは消えた。路地裏の肩を並べていた陋屋も消えた。
勝どきはたくさんの「土地のもンじゃない」人たちを受け容れて、ちょっとお洒落な"粋な"町になった。
だから地元の人にも、そんな思い出は無用なのかもしれない。
でもさ・・
勝どきは貧しい人たちが肩寄せ合って生きた町だった。
月島運河から向こう、月島7丁目以降は/今の勝どきは、倉庫ばかりが立ち並んでいた。その隙間に薦垂のような小さい民家が無数に有って、そこの人たちは河岸や倉庫で働いていたんだ。けっして豊かな人たちじゃなかった。
僕は思う。貧乏だったこと。それは決して恥ずかしいことじゃない。貧しいことは恥ずかしいことじゃない。恥ずかしいのは貧しいままでいることだ。
・・そう思う。
じつはね。そんな人たちのために、勝どき橋の梺には公益の質屋があったんだよ。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました