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佃新古細工#09/佃小橋の傍にある日の出湯のこと#02

もうちょっと銭湯の話から広がって佃の渡船の話をしよう。
ウチは、母と叔母夫婦そして僕の四人だった。男は僕と叔父だった。銭湯にはいつも僕一人で行った。叔父は定職には就いていなかったが職人気質だったンで風呂は開け一番に行ってた。僕はガッコから戻って夕食が終わってから・・だからいつも一人で行ってた。
もっと小さい時は母や伯母と行ってたけど、同級生に揶揄されるのが嫌でね、いつの間にかそうなったんだと思う。

でも、存外一人で行く銭湯は好きだったんだ。
それは銭湯あとの駄菓子屋もそうだったけど、桶持ったままフラフラと夜のそこいらを歩くのが好きだったから・・夜の住吉さんとか佃小橋向こう昔の所謂佃嶌町路地裏、それと佃の渡船船着き場なんかを一人で歩くのが好きだった。ヘンなガキだよな。あ。都電もすきでね。当時は乗り換え切符があったんで、それを使って乗り継いでウロウロと町を歩けたんだ。よくこの"日和下駄"もしてた。

思うと‥それは僕は東京生まれで東京育ちの癖に「異邦人」だったためかもしれない。
母は父が亡くなった後、僕を大船の撮影場で働いていた妹夫婦に預けたが、僕が小学校に入るころからは自分の許に引き取って母子二人で暮らすようになっていた。その頃、母は仕事場が変わるたびに何回も住居を替えていたので、僕の通う小学校もそのたびに替わっていた。どこへ行ってもいつでも僕は「転校生」だったンだ。それが僕の中に「異邦人」という形質を作ったのかもしれない。そんな風に思う。

まるで元の鞘に戻るように・・母と父が一緒に暮らし僕を授かった町・・元佃で暮らすようになってからも、やっぱり僕は「異邦人」のままだった。友達はいたし、それなりに社交的に振舞ってはいたが、心は独りのままだった。それが僕の現在まで繋がっている彷徨癖の一番奥底にあるように感じる。銭湯の帰りに、フラフラと夜の佃嶌町内を歩いたのは、独りでいることの安寧を求めてだと思う。

冬の寒い夜、銭湯の帰り。僕は佃の突端にある渡船乗り場へ出かけた。それで川風を避けて乗り場のベンチに座った。
真冬の隅田川の川風は刺すように痛い。
渡船乗り場は、岸に繋がれた艀だった。波に揺られる。渡し船が来ると大きく揺れた。夜の利用客は少ない。いかにも仕事帰りの会社員風な人と割烹着姿の壮年の婦人が多かったように思う。僕はベンチに座ったまま利用客の乗り降りをじっと見つめた。降客は襟を立てて、足早に凍たい川風を避けながら佃小橋へ続く通りを行く。町の暗闇に消えていく。その降客がいなくなると背中を丸めながら待っていた乗客たちが渡し船に乗り込こんでいく。そして、そそくさと風を避けて船内に入っていく。船も桟橋も、その人の動きと波でひとしきり大きく揺れる。
利用客の乗り降りが済むと、船員帽の小父さんが桟橋の柱に巻き付けられたロープを解いた。解きながら僕を見た。「坊。乗るンかい?」
僕は小さく首を振った。

渡し船は黒い川の中へ動き始めた。向こう岸は明るい。でも川面は重油のように漆黒だった。船は波に揺れながらドッ! ドッ!とエンジン音を立てながら進んだ。時折、向こう岸の明かりを受けてキラキラと光った。不気味な不安な風景だったと思う。
・・本当に向こう岸に向かってるのか?どこか知らない遠くに向かっているのか?僕は、銭湯帰りの桶の中にある生渇きのタオルを・・冷え切ったそれをまさぐりながらそう思った。
もしまた・・船員帽の小父さんに「坊。乗るンかい?」と聞かれたら・・今度は頷いて乗ってしまうかもしれない。そう思った。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました