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勝鬨新古細工#06/千葉のモノ売りのオバちゃん

東京オリンピックが有った年。母が勝鬨橋の南詰並びにあった店を買った。二階が住まいになっていた。そこへ仲町から越した。念願の店が持てて、母は意気揚々としていた。僕は嫌で仕方なかった。毎夜酔客の声が鳴り響く横路地だったからだ。

母は、店を小まめに修繕し、小ぎれいにしていた。
昼前に掃除を終えて植木に水をあげて、路地周りを掃くと2階でTVを見ながらお茶を飲んでいた。
昼近くになると、担ぎ屋のオバちゃんが大きな荷物を抱えて訪ねてくることが有った。
「おーい、豆持ってぎだぞー。」と階下から呼ぶ声がする。

夏休みの遅い朝だったと思う。中学生だった僕は部屋で寝転がりながら小松左京を読んでいた。
「千葉のオバちゃんだよ。」母はそう言うと窓のところへ立って「今行くわね!」と言った。
千葉のオバちゃん、というのは担ぎ屋のオバちゃんのことで、週に一回くらい大きな荷物をしょいながら、ウチの軒先に来た。その大きな荷物の中には、野菜や手作りの餅菓子、漬物、内職仕事で作った袋物なんぞが入っていた。

担ぎ屋のオバちゃんそのものを見かけなくなっちゃったから、ピン!!とこないかなぁ?千葉や茨木の農家の人で、常磐線や総武線に乗って朝早く東京へ行商に来ていたオバちゃんたちだ。自分より重い・・下手したら自分より大きい荷物を背負い、両手に大きな袋を背負って、オバちゃんたちは常連のウチを回って歩いていた。今思えば、農家にとって重要な現金収入だったんだろうな。

母は、夏場はこの「千葉のオバちゃん」から枝豆をたくさん買っていた。
店のお通しに使っていたんだと思う。大きな枝ぶりの、撓わに実が付いた青々とした枝豆を、オバちゃんは持ってきていた。
「どうだぁ、めっちゃ、旨そうだっぺ~」とオバちゃんが言ってるのが聞こえた。僕は本を読むのを止めて階下へ降りた。うちは階下が店になっている。その店先の軒下に、千葉のオバちゃんは荷物を解いて、母に色々なものを見せていた。その中に草餅が有った。
「食べる?」母が言った。
「おらが作ったんだ。うめえぞ~」オバちゃんが言った。
母は僕に草餅の入った箱を僕に渡した。
「オバちゃん、もうそろそろお昼だから、人心地したら?お茶出すわよ。」母が言った。
「悪いねぇ。んじゃぁ、せっかくだから呼ばれっかな」
オバちゃんは、我が家の軒先に乱舞する朝顔の横へ、担いでいた荷物を置くと、おもむろに大きな弁当を出した。母は、氷と麦茶の入った大きなグラスを手渡した。
「あれま、こんなひゃっこいもの貰って、極楽だぁ」
「お代わり、幾らでも有るから」母が言った。
「悪いねぇ」そう言いながら、店の中でさっきの草餅を食べてる僕に言った。「えがっぺ?あよ、えがへよ」
僕が、何を言われているのか判らなくてキョトンとしていると。
「うんと食わねえと、えがくなれねえぞ。」といって笑った。
その日焼けした・・幾つか歯が欠けた笑顔を、僕は今でも覚えている。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました