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ちょっとフィクション/梅雨の日のバス。

疲れた。
ああ疲れた。
疲れた以外の言葉が出てこない。

唯一使える日本語を、
ため息交じりに吐き出す。
疲れた。
ビニール傘を叩く雨音がかき消した。

今日はあいにくざざぶりの雨だ。
今日というか連日ずっと大雨が降っている。
天気予報によれば明日以降もずっとらしい。
はあ憂鬱だ。

雨粒にいくらか打たれながら、
停車するバスの最後列に乗り込んだ。

リュックサックを抱え込んで、
左側のガラスによりかかった。
結露した水滴が髪を濡らしたが構わなかった。
耳もとを冷たい水がつうと落ちた。

何をする気力も残っていなかった。
スマホを出してツイッターを見る気力さえ。
ただ視界にあるものにものではなくて、
色彩の変化としてぼんやり意識を向けていた。

ガラス越しに雨音が響いている。
頭蓋骨を伝ってトコトコと、
頭の中いっぱいに拡散する。
疲弊した脳の働きはいっそうおぼろになった。

帰ったら寝よう。
シャワーも浴びずにそのまま寝よう。
ぬれた服だけ着替えよう。
ああ歯磨きはしなきゃ。
立てるほどでもない予定を上のほうに浮かべた。

どうやら身体が動かなくなった。
指先を動かす気力すら尽きたか。
骨から距離を置いた細胞から、
空気と触れ合う細胞からどよりと、
溶けてしまうような感覚がする。

いっそ脳から解れて、
皮膚からなくなって、
人間としての形を失えば気が楽だろう。
だけど身体は溶けていかない。
最後列には窓にもたれて、
疲れきった人間がひとり。

いつのまにか、
眠ってしまっていたみたいだ。
最寄りのバス停は次に迫っていた。
崩れ落ちそうな指先で停車ボタンを押した。
指はしっかりと降車の意思を運転手に告げた。

湿気をいっぱいに吸収したみたいに、
重たい足は思い通りに動かない。
とっさの支えに手をついた拍子に、
運賃箱がピピッと鳴った。

見かねた運転手は声をかけた。
お疲れ様でした。
その言葉はお客に届かない。
ガラス窓を叩く雨音がかき消した。


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