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敦賀鉄道資料館へ!

昨日(8月15日)を狙ったわけではないが、18キップを持っていたので、大阪から敦賀へ新快速で行ってきた。
夏休み期間ということもあってか、大阪で改札を通過する人の手には18キップをよく見かけたせいか、敦賀直通の新快速の乗車ホームには多くの人が列をなしていた。

いつもながら京都までは多くの海外の観光客とおぼしき家族連れやカップルが乗車していた。京都を過ぎても乗り降りがあって乗客はさほど変わらず立っている方も多かった。
大阪から敦賀までこの直通新快速は約2時間で走っており、快適さを期待しなければ特急サンダーバード号とそんなに時間の差は感じないと思う。

敦賀に到着するのがお昼前とあって、すぐにお昼ご飯時間になっていたので、調べていたソースカツ丼で有名なお店に行くと既に多くの客が押し寄せていた。
とても暑い敦賀であったので、そのお店は諦めてほかで昼食をとった。

食後は海沿いの倉庫群や停泊中の船など眺めながら敦賀鉄道資料館に到着。
この鉄道博物館には100年前からヨーロッパ旅行の玄関口として、東京から汽車が開通していたが、今はその名残はほとんどない。

その後にすぐそばにある「人道の道 敦賀ムゼウム」を見学した。
以前、TVで紹介され100年前はここ敦賀から船に乗り、ウラジオストク港まで船旅、ウラジオストクからパリまでシベリア鉄道の汽車旅で約2週間かかったとのことだ。現代では飛行機で14時間くらいで日本からヨーロッパへ行けることを考えてみると雲泥の差である。
かの与謝野晶子さんなども利用したようだ。
杉原千畝さんが1940(昭和15)年~1941(昭和16)年、ユダヤ難民はナチス・ドイツの迫害等から逃れるため、リトアニアのカウナス領事代理だった彼が発給した「命のビザ」を携え、リトアニアからウラジオストクを経て、敦賀港に上陸したことで有名。苦難の旅路を経て敦賀に降り立った彼らは、敦賀の街が「天国(ヘブン)に見えた」と後に語っているどうである。
(※”ムゼイム”とはポーランド語で”資料館”)

大迫辰雄氏のアルバム

また、ここを訪れるまで知らなかった、その20年前にもロシア革命のシベリアで家族を失ったポーランドの子どもたちは、日本赤十字社などの迅速な活動により救済されている。敦賀に上陸した孤児たちの様子や各地での暮らし、そしてポーランドへの帰国を手助けしたことは初耳である。

ポーランド孤児

敦賀の人々は、それらの方々をあたたかく受けいれ歓迎さえしていると史料に残されていることを読むにつけ、同じ日本人として胸が熱くなる気すらしてくる。これは敦賀の人々だけでなくその後通過して帰国や他国へ移住した港町の神戸市や東京でも同じようなことがあったと記されている。

日本の終戦記念日である15日にここを訪れ、戦争に関わった世界の庶民の苦労や優しさの片鱗にふれたことが、意義深い何かを感じた日となった。

当然、このような美談だけでないことは考えておかないといけないし、記憶にとどめておくべきことだと思う。
私も普段より心優しい人付き合いをしていこうと思う。

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