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私と祖父とクレッセントハウス

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「古き良き時代」の面影を、現代までそのままに残したクレッセントハウス。2020年、ついにその歴史が幕を閉じます。様々な想いを胸に、作家として大きな影響を受けたこの場所についてを、… もっと読む
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#芝公園

クレッセントハウス存続を求めて。

クレッセントハウスの保存活用をもとめて。 本当にこれでいいのか、という想いが強く、FBページを立ち上げる事にしました。 解体の可能性が高いのにFBを立ち上げる意味を聞かれても、具体的に答えるのは難しい。ただ祖父の関連で思い入れがあるから、というのともちょっと違う。 ただ,言えるのは、どんな結果に終わろうとも、この件を通して同じように、このコロナの時代にあって、古くからの文化や物語、環境が失われていること、その流れは加速している、と言うことくらいは伝えられる。失われる前に未

クレッセントハウス完成パーティーの冊子より(1968年)

開館にあたって  1947年の秋、長かった戦地の生活つから帰ってきた私は古美術商になってみようと「三日月」を商号として出発しました。  翌年戦災で砂漠の様になって居た芝公園に些かな店舗を建築して西洋古美術の専門店を開きましたが、10年経った1957年の秋にはその建物を改築して年来望んでいた仏蘭西洋料理「レストラン・クレッセント 」を開いて古美術商は京橋宝町に移しました。   このことは常々「美しいもの」と「美味しいもの」との深い関係について考えていた私の大きな実験でもありま

「鹿鳴館の夜」、祖父による最後の案内状 (16)

〜ヴィクトリア女王時代のイギリス料理〜 日増しに秋も深まり、紅葉の美しい頃となりましたが、皆様方には益々御清祥のことと御慶び申し上げます。 「鹿鳴館の夜」大晩餐会も回をかさね16回を迎えました。20数年前1町ロンドンといわれた丸の内の煉瓦建築が次々と取り壊されていた頃、大正初期生まれの私自身のノスタルジーから、敢えて後期ヴィクトリア女王時代の宮廷メニューを参考とし、これを現代風にアレンジしてみました。元来英国の食卓はローマ時代から中世迄、野生豊かな、所謂野蛮食でありました

18世紀の晩餐会・料理の復刻、「鹿鳴館の夜」(15)

怒涛の2020年が終わり、2021年を迎えました。時代が大きく移り変わる中、私たちは、何を得て、何を喪失し、何に立ち上がり、何を守っていくのだろう。そうして、どんな新しい時代を、未来を作っていくのだろう。 年内に室内の整理が終わったと思われる今のクレッセントでは、しばらくの間、静けさの中、運命の成り行きを待ちながら佇んでいます。 昨年のコロナの影響では、このクレッセントハウスのように、伝統ある事業、歴史ある建物等多くの価値あるものが失われていったと思います。コロナ問題と経

「鹿鳴館の夜」 メニューで見るレストランクレッセントの歴史(10)(11)

レストランクレッセント閉店を知ってから、家にわずかに残された資料をまとめることが、不思議と私にとっての小さな使命感になっていました。それは、同じ様にクレッセントでの想い出を大切にされている方々にとっても、改めてこんな側面があったのかということを、なくなってしまう前に少しでも知っていただいてお楽しみいただける様な内容になれば、という思いからであると同時に、この昔の資料の中には、古く美しき時代を大切にしつつ、新しい時代へとそれをつなげていく…所々に見え隠れするそんな内容を、現代に

「鹿鳴館の夜」〜洋風御懐石の夕べ〜 案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(7)(8)(9)

秋深く、菊花も美しく咲き乱れるこの頃、皆様方には益々御清祥のことと御慶申し上げます。クレッセントハウスの年中行事「鹿鳴館の夜」も回を重ね、今年は第7回を迎えることとなりました。 近年フランスでは「ムニュ・デギュスタシオン」という調理形式が注目されております。これは日本料理の影響を多分に受け、合せて19世紀末の数多いメニューを現代人の嗜好に会うようにアレンジして少量づつ味わう、いわば、フランス風の懐石料理とも言えるものであります。 当館は昨年からこの晩餐会をより愉しくするた

「鹿鳴館の夜」〜コンサートディナーの夕べ〜 案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(6)

日一日と秋深まり、爽やかな紅葉の季節となりました。クレッセントハウスの年中行事「鹿鳴館の夜会」も回を重ねて、今年は6回目を迎える事となりました。昨年迄のメニューは、明治時代の宴席の献立を基調とし、現代の嗜好に叶った料理を味わっていただこうと心がけました。 又、この会では毎回、北村維章とそのトリオが演奏いたしますが、今回は、19世紀ヨーロッパで流行致しましたコンサートディナーの様式を取り入れ、曲目の選定に意を用いて、前回以上に音楽もお楽しみ頂ける様、配慮致しました。 何卒、

クレッセントハウス、レストランのおもてなしの心に通じる骨董品たち(前)

下記は、昭和50年に発行された「小さな蕾」2月号より引用しています。 石黒孝次郎が骨董品にかけた想いはそのまま、レストランクレッセント のおもてなしの空間につうじていることがわかります。置物、食器、人、か会話・・・全てが調和されてはじめて、ほんとうのおもてなしの空間が生まれる。そんな空間で生まれた人間関係は、その先もきっとかけがえのないものになる。 このnoteでは、レストランクレッセント の歴史を、古美術商としての側面と、レストランとしての側面とを両方まとめています。

「鹿鳴館の夜」案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(4)

第4回 鹿鳴館の夜 ご案内 謹啓 爽秋の候益々御清祥のことと御喜申し上げます。クレッセントハウスの年中行事「鹿鳴館の夜会」も好評裡に回を重ね第4回を迎えることとなりました。本年は、明治31年(1898年)7月11日ロシア国キリウ・ウラジミロウイッチ大公を閑院宮載仁親王殿下が接待された時の献立を再現致したいと存じます。ご承知の通り、当時の帝制ロシア宮廷に於ける食卓は、フランス ルイ王朝時代の流れを汲み贅をつくしたもので、その国の皇族を招く宴席の献立には、当時の司厨部員はさぞや

「鹿鳴館の夜」案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(3)

候益御清祥のことと御慶び申し上げます。 扨クレッセントハウスの年中行事「鹿鳴館の夜」も、御陰様にて毎回好評理裡に回を重ね第3回を迎えることとなりました。 本年は、明治26年(1893年)当時陸軍軍医総監であった私の祖父が遺しました、その年11月4日宮中招待宴のメニューを復現して御覧に入れたいと存じます。(因に明治26年は日清戦争の前年に当たり、清国や朝鮮との外交関係は正に一触即発の状態にあった年であります。) 今年の晩餐会を計画するにあたり、私共は極力前回迄の経験を生かし、こ

「鹿鳴館の夜」案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(2)

謹啓 菊花の候皆様方におかれましては益御清祥のことと御慶び申し上げます。 扨去年の十一月三日文化の日より三日間にわたりクレッセントハウスに於いて明治時代鹿鳴館の西洋料理を復刻再現し御賞味戴きました お陰様にてこの催しは大変なご好評を得、毎年同じ様な夜会を計画する様にとの強いご要望が御座いましたので、別記の日取りを以て第二回鹿鳴館の夜晩餐会を開催させて戴きます 本年はたまたま今から百年前一八七六年(明治九年)の英国に於るメニューが手に入りましたので、この献立を織り込んだ明

「鹿鳴館の夜」案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史

鹿鳴館の夜 ご案内 謹拝 爽秋の候益御清祥のことと御慶び申し上げます。  このたびレストランクレッセントは明治時代鹿鳴館の西洋料理を復刻再現して皆様に賞味して戴く夜会を計画致しました。と申しますのは、私の祖父が明治初年から宮中広島大本営鹿鳴館などに招待されました時の招待状やメニュー類、数十葉が、幸に戦火を免れて遺り、しかも偶然私が戦後レストランを経営することとなりましたので、開業1周年記念に私の祖父がこれらを贈って呉れましたので何時の日かこの明治メニューの一つを再現して見

古代美術商としてのクレッセントハウス 〜西洋古美術の魅力〜 <前編>

祖父の話というのは、西洋美術や中近東古美術等に興味のある方であれば、なかなか興味深い内容ですが、そういったお話がわからなくても、方々国々を駆け巡り、夢に向かって自分の道を生きた人として、多彩な経験の引き出しから話をするので、自分らしさを生き方の軸としていく考え方が増えている今の時代の人が見ても色あせない内容も多いと感じていました。 また、クレッセントハウスの完成を見ずして亡くなった祖母ですが、美術品のコレクションは、その後も「石黒夫妻コレクション」とよばれ、常に寄り添い続け

平山郁夫氏による、「石黒孝次郎氏の思い出」

クレッセントハウスは、古美術商として誕生し、後にフランス料理店になりました。レストラン時代からをご存知の方で、美術商としての側面をご存知の方は少なくなってしまいましたが、クレッセントハウスの本当の顔は、古美術品で満ち溢れ、各方面の専門家の先生方が、クレッセントで食事を取りながら、英国風の建物の中、アンティークで統一されたインテリアに包まれながら、祖父と古く美しきものについて談笑している、そんな風景だったと思います。 いつしか、古美術商あってのレストラン、レストランあっての古