ヒマラヤに死す
これは本人から託された最期の原稿です…
なーんちゃって🤪
ご心配なく、美香は今日も元気に旅を続けております。
なんて冗談を今なら言えますが、正直、今回のマナスル登山は、かなり怖い思いをしました。
それは施設や道の悪さのせいではなく、寒さによる命の危機を味わったのです。
今回の「マナスル山歩き」というのは、いわゆる山の頂上を目指すのではなく、マナスル山で比較的越えやすい峠をちょこっと越えるだけなのですが、それでも標高は5,106mで、当然のことながら、かなり空気が薄く、どんなに歩きなれた人でも牛歩のごとく、ゆっくり、ゆっくり歩かないと、途端に酸欠を起こしてしまいます。
この峠越えは、強風を避けるために日が昇らない早朝から歩き始めなければなりません。
私たちは、ダラムサラの簡易宿を4:20に出発しました。
闇の中に広がる雪を冠した山の尾根、オリオン座の瞬きは、何とも幻想的です。
これから歩く道には、先に歩きはじめた人たちのヘッドライトの灯りの列が見え、それはまるで、星空へ向かって昇っていくような、神聖な雰囲気を醸し出していました。
この時すでに、14日間ヒマラヤ山脈の中を歩いてきたので、体力的には強くなっていたのですが、問題は冷えです。
私はもともと冷え性で、さらには贅肉という類のものがほとんど身についていないのです。
こんなことを言うと、痩身を自慢しているように聞こえるかもしれませんが、これがまさに、今回、命取りとなっったのです。
気温は−10度。いくら歩き続けても、身体が温まってくることがなく、それはまるで蝋燭の炎の熱を辛うじて抱いて歩いているようなもので、ひとたび足を止めると、その熱は瞬く間に失われてしまいます。だから歩き続けたいのですが、そこは標高4,500m以上の高山。息が続かず、歩みを止めざるを得ません。
刻々と奪われていく体温、苦しくなっていく呼吸。
いくら頭の中で落ち着け、深い息をするんだ、と自分に言い聞かせても、身体は言うことを聞かず、ますます息は上がっていき、仕方なく歩みを止めて膝に手を突き、荒い息を繰り返す。するとますます、身体は冷えていきます。
そんなことがいったいどれぐらい続いたのでしょうか、ある時から、荒い呼吸にヒーヒーという声が混じり、目から涙がこぼれはじめました。
そしてとうとう、その場にしゃがみこんで項垂れ、動けなくなってしまったのです。
近くを歩いていた他のグループのガイドさんが私の異変にすぐ気付き、
「止まっていてはダメだ!ゆっくり歩くんだ!」
と声をかけてくれたのですが、私はただ弱々しく
「寒い…」
と呟くのがやっとでした。
すると少しあとから、私たちのグループがやって来て、何とか私の身体を抱え起こし、
「もうすぐ日の出がやってくる。そうすれば身体も温まるから、とにかく今は歩こう」
と励まし、私を先へと促しました。
幸い、すぐ近くにテント張りの小さなティーハウスがあり、私はその中へ入れてもらい、束の間、暖をとりました。
私の夫とガイドさんが、甘い紅茶を啜るようにと、私の手にカップを握らせようとしましたが、寒さからの震えが激しく、誰かに支えてもらわないと、全てこぼしてしまいそうなほどです。
テントの中で、いったいどこに誰がいたのか、全く覚えていないのですが、多くの人が私を囲み、お茶を啜らせ、お茶に浸したビスケットを食べさせてくれたおかげで、身体の冷えは和らぎ、気持ちも落ち着き、歩く気力も戻ってきました。
「大丈夫?」
「大丈夫」
辺りの人と体調を確かめあってからティーハウスを出ると、他のグループのガイドさんがカイロを分けてくれ、友人が厚手の手袋を貸してくれ、他の誰かがセーターを着させ、その上からタオルを巻きつけ、スカーフで顔を覆ってくれました。
肉体的な温かさよりも、そんな多くの人々の優しさが何より心に沁みて、ただただ、ありがたい気持ちでいっぱいになりました。
やがて夜は明け、背中から日が差してくると、極端に身体が冷え込むこともなくなり、歩みを止めて息を整えることも難なく繰り返せるようになりました。
そして、出発から5時間後、無事に峠へ辿り着くことができました。
この時の心境は達成感よりも、
「こんなん、もういややー😭」
という拒否感で満ち満ちていました。
峠を越えると、道は急傾斜でいっきに下りはじめるので、まだまだ油断はできませんが、環境はみるみるよくなっていきます。
太陽がさんさんと照り、ほんの数時間前の闇と氷の世界がまるで幻であったかのように穏やかで、私自身も体力も気力も回復し、写真を撮る余裕さえでてきました。
今回、低体温症になった原因はひとつではありませんが、身体の脂肪が少ないというのは、大きな要因だったと思います。
あなたが日頃から恨めしく感じている脂肪は、必ずしも悪いやつではないのです。
ぽっこり出たその下腹が、今年の冬、あなたを極寒から守ってくれるのかもしれません。
そう考えると、愛おしくなってきませんか?