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考えるという行為は本能的な作業か?

こんな質問をQuoraで頂きました。達也さんという方からです。

どちらか選択せよ、と言われたら私にとっては本能的な作業です。

たとえば、この質問に答えているのも、相当に本能的です。


一日に果てしなく届く私へのダイレクトな回答リクエストの中から、この質問に答えていることからも分かります。膨大な質問リストが届いて、ずらーっと眺めて、「おっ」と目が留まったものに回答します。そういう意味では達也さん、ラッキーでしたね。

なぜ本能的なのかをご説明しましょう。

私は文章を書くことによって自分と対話します。

ただしここからが他の人と違うところです。文章を書き始めると「中の私」が起きます。その「中の私」は外の私より数段優れているので、それを使うわけです。この感覚、ちょっと面白いでしょ。

ただ、その「中の私」を使うと凄く疲れます

集中し、思索の海に飛び込み、思考し、言葉を紡ぎ出します。その作業は私と言う体を使って誰か違う人が書いている、そんな感じだと表現できます。ちょっと面白い感覚なんですが、書き終わるとどっと疲れます。

そうして紡ぎ出した言葉が誰かの目に留まり、それがその人に何かインスピレーションを与え、何か良い影響を与え、それが周囲に良い影響を及ぼす、そんな連鎖が生まれることを期待します。

創造的プロセスは3つのステップで成り立っています。

①インプット ⇒ ②蓄積+処理 ⇒ ③アウトプット

「考える」は、②の部分を司ります。つまり「中の私」ですね。そしてそれをカタチにするのが、③アウトプットです。ゆえに①のインプットの品質が最後のアウトプットの品質に直結します。分かり易い例でいうと、バカな質問にはバカな回答、となるわけです。

従って、「中の私」を使おうと思わせる「おっ!」という質問リクエストに目に留まった時が、私には至福の時間の始まりになります。今回もしばしの時間、思索の海に潜って言葉を掴んできました。

皆さんの場合はいかがでしょう。

お聞かせいただけると嬉しいです。

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