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ものかきものがたり・8行め:「逢瀬」

「肉を食いに行こう。もちろん僕の奢りだよ」

青年が、印刷屋のアルバイトで出会った作曲家の先生は――
ほとんど見ず知らず、赤の他人、業界人の先生にとっては歯牙にもかけない小僧の青年を、アルバイトから直帰の予定だった青年を食事に誘ってくれて。しかも、それなりの店に入るために――薄汚れた仕事着の青年に、自分の上着と靴を貸してくれた。
先生が呼んだタクシーの中で、借り物の服をまとって縮こまっている青年に、先生は。

「きみ、菅沼くんは……新宿で遊んだりするかね」
「……いえ。新宿は知らなくて怖いですし、金もないから……ほとんど」
「ふむ。まあ、たしかにいかがわしい、危険な場所も多いが。そういう場所を覚えて、自分の遊び場をしっかり決めておけば大丈夫さ。僕だって歌舞伎町の北には行かないしね。ああ、これから行く場所は……」

話す間に、タクシーは新宿の西口、今で言う思い出横丁――当時はションベン横丁などとも呼ばれていた繁華街――の手前、まさに摩天楼な野村ビルのふもとで停まり、先生と青年を降ろして。
先生は夜の新宿を、まったく戸惑いも淀みもない、上機嫌な足取りで進んで。慣れない人混み、そして戸惑いで歩が遅れる田舎者の青年を、先をゆく先生は楽しそうに手招きし――先生のその姿、しぐさは、「雨に唄えば」のジーン・ケリーのようで。
そして、通りに面したビルの上階のレストラン街へ。そこにあった、鉄板焼の店に……青年にとっては、その暖簾を見ることすら思いつかない高級店の香りただようそこに、青年を招き入れ。そして、先生は小声で。

「店員が席まで案内するから。僕が上着を脱いだら、きみも脱ぎ給え。ここは、店員に上着を預ければいい」
「……店の中で、服を脱ぐんですか?」
「ふふふ。店、劇場、酒場。それぞれにいろんなドレスコード、決まり事がある。きみみたいな青年は、まだそういうのを知らなくて、そういう決まりに意味を感じずに馬鹿にすることも多いけど……決まり事には、必ず理由がある。大丈夫、僕が一緒のときは……教えるさ」

……なぜ、俺にそこまでしてくれるのですか?
青年が、戸惑いを質問をして口にするより早く、店員が先生を迎え入れ、丁重にお辞儀し……その背後にいた青年も同じように店の奥に。そして先生が上着を脱ぐと、青年もハッとして借り物の麻の上着を脱ぐ。
その上着を預かったのとは別の店員が、先生と青年をカウンターの席へ案内し。
そこで、鉄板の向こうにいる料理長と親しげに言葉をかわした先生は、わけがわからないまま、縮こまる青年に。

「きみ、菅沼くんは。いけるくちかね、お酒は」
「……はい、こんな高い店で飲んだことないですけど」
「ふむ。飲めるのはいいことだ、こういう業界だととくにね。それに物書き志望なら……酒の味は知らないと、覚えておかないとね。酔うだけじゃ損だ、酒は語るに、歌うに値する」
「はい、俺の好きな開口健も――」
「ふふふ。じゃあ、今日は酒も僕が押し付けるとするか。最初は……」

先生は、ウェイターの店員を指を立てて呼んで。何か、青年の知らない単語で注文をする。
そして出され、鉄板で焼かれる肉は……青年が漫画やアニメでしか見たことのない大きさ、部位の、高級そうな肉。鉄板、そこに面したカウンターに並んで座る先生と青年の前に運ばれてきたのは――背の高い、瀟洒なフルートグラス。その中の、細かな泡を燻らせている淡い琥珀の液体、酒。

「……。すごく、いい匂い、です。先生、これは――」
食前酒アペリティフだよ。イタリア語だとアペリティーヴォ。これはシャンパンだね」
「シャンパン……。あの、クリスマスとかに飲む……」
「ふふふ。フフフフ」

青年の言葉に、愉快そうに笑った先生は。
「まず乾杯しよう。……ワインの乾杯は、グラスを打ち鳴らすと駄目というやつもいるが、そんなのは日本の田舎者だけだ。もちろん、グラスを割らないように――ふつうは、腹の部分を当てて乾杯する。……ああ、親しい相手のときは口の部分を打ち鳴らすのもありだ」
先生は、楽しそうに講義をしながら――青年のぎこちなく掲げたグラスに、自分のグラスの呑み口を当てて乾杯し、そして。

「こういう食前酒での乾杯のときは。最初の一口でいったんグラスを置きたまえ。イッキする必要はない」
「…………。……!? ……。 うまい。なんですか、この酒。炭酸っぽいのに、甘くなくて、でも甘くって……すみません、うまく言えない」
「ふふふ。それをうまく言える、書けるようにならないとね。それはシャンパン、フランスのシャンパーニュ地方で作られる発泡の白ワイン、銘柄はモエのアンペリアル。辛口。ドン・ペリニヨンという名を聞いたことがないかね、それを作っているブランドの酒だよ」
「……浜田省吾の歌の――ベッドで、って」
「ふふふ。それそれ。ベッドで飲むのはどうかと思う酒だがね。まあ、また今度、きみと飲んでみようか。ドン・ペリニヨン。食前酒には少し甘すぎると思うから、今回は選ばなかった」
「……そんな、俺にそんな高い酒――」
「ふふふ。さっき、きみはシャンパンがクリスマスの酒、と言っていたが。嘆かわしい。日本だといつの間にか、炭酸と焼酎を入れたぶどうジュースがシャンパンという名でまかり通って――本物のシャンパンは、さっき言ったフランスのシャンパーニュ地方で作られた伝統的な白の発泡だけだ。ほかのフランス産の発泡した白は、クレマン。イタリア語だとスプマンテ。ふふふ、やかましいかもしれないが語るのも酒の味だ」

青年が、先生の厚意と講釈に戸惑っている間にも、先生はグラスの酒を楽しんでカラにして。青年も、慌ててそれを追って――そして、赤ワインのグラスが来る頃に。二人の前に、鉄板で焼かれた肉が並べられる。
その肉は……。
牛丼が至上のごちそうだった青年にとっては……。

「この肉も、うまいです、先生。これ、なんですか、牛肉ってこんな……」
「ランプ、腰肉ともも肉の間だね。サーロイン、ってきいたことないかね。その隣の部位でね――ぼくは、サシが多い、柔いだけの脂ぎった肉が苦手でね。菅沼くんは、どうだい」
「……うまいです。肉なのに、お刺身みたいで。……血の味みたいなのに、臭くなくって」
「ふふふ。その血の味に、赤ワインをやりたまえ。口と胃の中で、幸せな結婚マリアージュを味わうんだ」
「ワインも、うまいです。赤ワインとか、こんな味がする酒だったんですね。これは……」
「今日の赤はボルドォだったかな。ぼくはブルゴーニュが好きだけど、肉に合うのはボルドォだね」
「こんな肉、初めて食いました。お酒も。……すみません、俺。こんなに先生によく――」

気づけば、がっついて眼の前の肉を食い尽くしてしまって。恥ずかしさに縮こまりながら、そしてまた……先生のこの厚意、それが図れずにいる青年。その声を、問いに被せるように先生は。

「肉、そうか。きみ、菅沼くんは牛丼が好きなんだったか。浅草の米久で牛鍋でもよかったか、まあそれはまた今度にしよう。高村光太郎、しっているだろう。米久の晩餐さ」
「はい、美術の教科書で。彫刻を――」
「ぼくは、彼の詩が好きだな。……さて、つぎは」

ゆっくり、ランプ肉を味わった先生は――別の注文をして、新しいグラスの赤ワインをふたつ。
その赤い酒を舐めながら、

「きみ、さっきのフルートグラスやこのワイングラスのときは足の部分を持ちたまえ。胴の、風船の部分に指紋をつけてはいけないよ」
「はい。……なんか、映画とかで悪役がグラスを、こうやって包んで持つのは……?」
「ふふふ。あれはコニャックとかの強い酒だよ。ああいう酒は、丸いグラスに入れて、手の熱で香りと味を燻らせて楽しむ。シャンパンやワインは、手のぬくさで温めると台無しな香りになる。ふふふ。原料が同じ葡萄でもね、仕込みと仕上げで、全く違うものになる」
「……すみません、メモ帳とか持ってくるようにします」
「かまわないさ。こっちは語って、楽しんでいる。きみも、直ぐに自分の言葉でも語れるようになるさ」

そうやって。
先生は、青年が聞いたこともない肉を注文し。赤ワインを語って。酒が進んで、上機嫌がさらに、ふわふわした語り口なってきた先生は店員に赤ワインのボトルを二本、持ってこさせて。

「こっちのね、ウィスキーとかでもよくある瓶。肩がいかった感じのボトルのがボルドォのワイン。こっちのなで肩、女性的なボトルがブルゴーニュのワインだね」
「……産地で、違うのですね」
「ボルドォは寝かせるワインが多いからね。おりがグラスに入らないようにその形になっているそうだけど……寝かせた高い酒は、そもそもデキャンタするから。ぼくは俗説だと思っている」
「デキャンタ?」
「ふふふ。またそれも、今度。……今日は、きみと話していたらだいぶ……飲んでしまった」
「……すみません、時間も――」
「河岸を変えようとも思っていたんだが……まあ、また今度にしよう」

先生は青年を促し、席を立って。
青年が、店員の持ってきた麻の上着をあたふたと羽織っているうちに。先生は、奥まった場所にあった勘定場で支払いを済ませていて。青年は、そのときに見えた1万円札の層にギョッとしてしまい。

「……す、すみません、ごちそうさまです、先生。その、俺、こんな高い……」
「――そうだった。さっき、言いそびれたね」
先生は、エレベーターの中でも、気分良さそうに酩酊した口元で語り、
「こういう店では、基本。背広の、スーツの上着は脱がない。ここは鉄板焼で、煙と油がね。だから上着は脱いだけど――レストランなどでは、上着は脱いではいけないよ。Yシャツ、カッターシャツは肌着と一緒だ、本来は外で他人に見せるものではないんだ」
「そうなんですね」
「ふふふ。上下揃いの仕立てのスーツにネクタイ、靴。時計。これは基本……最近流行っているコンピューターゲームの『そうび』さ、男性、もちろん女性もね。きみくらいの歳の若者だと、ばかにするかもしれないが……決まりとか、儀式とかには……必ず、理由が、ある」
「先生、ゲームもするんですか」
「ああいうゲームはやらないけど、作曲の知り合いというか有名人がゲームの曲を手掛けてね。それでいろいろと、僕もね」
「ゲーム。……そうか、そういうのもあるんですね――」
「ふふふ。きみのなりたい物書きは、小説家だけじゃあるまい? 僕のいる業界、TVの脚本、舞台の台本、ラジオの作家、そこに……いまだと、ゲームにも脚本とかあるんじゃないか」
「…………」

青年を連れて、先生は夜の新宿に戻ると。タクシー乗り場の前で。
「……すまないね、遅い時間まで。つき合わせてしまった。明日が土曜日とはいえ」
「いえ、その……ありがとうございます、ごちそうさま、でした。……俺、あんな高い店で、その――先生、どうして俺に、こんな……」
「ふふふ。まだ宵の口だ。僕はこれから、いつも沈没する店に飲みに行くとしよう」
「は、はい。その、俺も帰ります」

先生は、駅に向かおうとした青年に――財布ではなく、ポケットに忍ばせていた金を、五千円札を取り出すと……先生は、少しためらったようにその札を。
青年の手を取って、そこに押し込むようにして握らせた。青年の手より小さく、そして胼胝タコもなにもない柔らかで熱い先生の手の感触に、青年は??となって。

「え、先生――」
「その、その店には。これから僕の行く店は、また今度……一緒に行こう。今夜は、これで帰りたまえ。もちろん、どこかで飲み直してもいいね。口やかましい老人のいない酒で、口直しさ」
「……そんな。悪いです、先生」
「ふふふ。新宿で遊んだことがないんだったね、きみは。だったら……少し外堀から攻めてみるのもありだ。四谷まで、車で行って。そこにあるバーにひとりで入ってごらん。これは宿題にしよう」

先生はそう言って、店の名前と、その場所を青年に伝えて。
「そのバーは、そんなに堅苦しくない。カウンターに座ったら、マスターに僕の名前を言えばいい。そこで、そうだね……今夜は、バーボンで口直ししたまえよ。マスターに任せておけばいい」
「……バーボン、ウィスキーですか」
「そっちの世界もね。ふふふ。語りがい、味わいがある」
「……。あのっ、先生――」

そのまま、タクシーの並びの方へ行こうとした先生に。
青年は、その夜ずっと、彼の胸中、胃袋の裏にわだかまっていた思いを――疑惑、と言ったら失礼に当たるような、そんな戸惑いで食い下がった。

「……その、先生、どうして。俺なんかに、こんなに良くしてくださるんですか? 俺、なんにも持ってないですし、なにもできない――」
「――……。そんな、理由なんて。たいしたものはないよ。言っただろう、語るのも酒の味。きみはその相手、まあ酒のつまみ……うん。……もしかして、今夜、その……嫌だったかい、きみ――」
「いえ、すっごくたのしくって、肉も酒もうまくって。お話し、ためになって。その、でも……」
「――……。ぼくは、ねえ」

先生は、タクシーの方に向かおうとしていた足を。青年に貸したのとは格の違う、新宿の夜気の中でもきらめいて見える革靴で、明らかに……何か、迷うようにつま先を動かして。
そして。

「…………。僕は、この歳で独身で、子供がいない。もし息子がいたら、きみくらいだったかな。ふふふ、まあ、そんな――息子くらいの歳の男の子に、いろいろ教え込む、知らない世界を見せるとか、仕込む、とか……気分がいい、もんだって。その、ね」
「そういうもの、なんですか」
「あしながおじさん、マイ・フェア・レディを気取るわけじゃないがね。……その、もし――」
「はい」
「きみが、気味悪くないのなら、嫌じゃないのなら……ふふふ。歳は離れているが」

先生は、そう言って。はにかむような笑み、そして少しためらったように。右手を。
青年は、数秒たってそれが握手だと気づいて。先生の手を取って――
やはり、青年のそれよりも小さく、女性的に柔らかな作曲家の手と……握手を、して。

「その、友人だと。友情……だと思ってもらえると」
「……そんな、俺なんかが。でも、ありがとうございます、先生――」
「ありがとう。……ふふふ。じゃあ、さっきのバーにいってみたまえ。僕は……まだ秘密の、僕の隠れ家に沈没するよ、今夜は」
「はい、俺は四谷の―― あっ、先生、この服と靴」
「それは、きみが持っていたまえ。クリーニングとか気にしなくていい、その靴も。靴磨きは……。また来週、持ってきてくれたら別のと交換しよう」

先生はそう言って。
今度は、後ろ手で、背中で手を降って。どこか、逃げるようにタクシーの車列の方に言ってしまった。
先生の姿が、消えて。ようやく青年は。
自分も独りでタクシーに乗る勇気は、さすがになくて。まだ活気あふれる金曜日の夜の新宿駅へと向かいながら。

それまで、全く知らなかった世界を見た――
ひな鳥が、初めて巣箱の丸い穴の外の世界を見たような……知らなかった世界の、マナーや酒、肉、男性の身だしなみ。そしてゲーム。
情報の、奔流。アルコールで霧がかかった脳でも、眼の前がチカチカするような体験。
それらを与えてくれた、先生がいなくなった夜の新宿で。
青年は四谷に向かいながら――酒の酔いすら感じさせないほどの、軽い頭痛めいた高揚に浸っていた。


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