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嫉妬とか価値とか

「嫉妬」という感情が嫌いだ。
しつこくて、うるさくて、すぐ拗ねる。

何かのきっかけで私の心の中の嫉妬が声をあげようもんなら、いち早くそのきっかけから距離を取りたくなる。嫉妬には一生黙っていてもらいたい。

しかし不気味なことに、自らそのきっかけに近づいているときがある。
そこにきっかけとなる「そいつ」がいることがわかっているのにも関わらず、私は近づいていく。「そいつ」に触れた瞬間に嫉妬が声をあげると、私はその場から走り去りながら「まぁやっぱりね」「わかっていましたよ」とどこか納得している。まるで臭いものをわざわざ嗅ぎにいくかのような。我ながら何をしているんだろうか。

嫉妬にはだいぶ苦しめられてきたので長い間距離を取ってきたが、いい加減そろそろ向き合わなければならないだろう。

私が得られなかったもの

今まで散々苦しんだので、嫉妬が声をあげる「そいつ」の正体を私は知っている。
"自分が大切に思う人からの興味・愛が得られないと突きつけられる現実" だ。

大切な人からの愛は、必ず自分だけに向けられていなければならない。
なぜなら、他にも興味や愛を向ける対象がいるということは、自分は代替可能な存在であり、いつ自分に向けられなくなるかわからない不安定な関係性を意味するからだ。それは過去のことであろうと未来のことであろうと関係ない。

どうして他の人が得られて自分は得られないのか。
例え今自分が得られても、過去に他の人が得られていたのと同じ分だけ得られるのでは意味がない。越えなければ取って代わられる。
どうして欲しいものが得られないのか。
どうして誰も私だけを見てくれないのか。

お分かりの通りどんどん卑屈になった私の答えはいつも同じだ。
私にそれだけの価値がないから

そう考えれば全て合点がいってしまう。

他の人は得られて自分が得られないのは、自分が他の人より価値がないから。
他の人と同じ分だけしか得られないのは、自分は同程度の人間だから。(=自分である必要はない)
欲しいものが得られなくて、私だけを見てくれる人がいないのは、全部自分に価値がないから。

そんな辛さに耐えられなくなった私は開き直る。
「私は価値がないことを自覚しています。ほらね、また私に価値がないからこういう出来事が起こるんでしょう?そんなもの得られなくて大丈夫、嫉妬なんてしていないから。」


欲しかったと認める。価値は自分で決める。

嫉妬と上手く付き合うのには、これしかないというのが今のところの私の見解だ。

まずは自分が欲しかったものを欲しかったと素直に認めること。これはだいぶ難しい。できたと思っても次々きっかけがやってきて、やっぱりまだできていないか、の繰り返しだ。

そして自分の欲しかったものが得られなかったことと、自分の価値は関係がないと信じること

これもまだできていない。前よりはだいぶできるようになってきたけど、まだまだ揺らぎまくる。

でも、これができるようになってきたら、嫉妬とも上手く付き合える気がしている。

確かに私はそれが欲しかった。それを得ることができなかったけれど、私に価値がなかったからではない。私の価値は私が決める。

何回も心の中で繰り返しながら、
私が私を癒していく。




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